人は誰しも「自分はなにがしかの価値がある」と思いたがります。だから、馬鹿にされたり、否定されると怒りの感情が芽生えます。
しかし、「なにがしかの価値がある」のならば、なぜ持ちあげられないのでしょう?もてはやされないのでしょう?安月給で、友達もいないのでしょう。
周囲が正当に評価してくれない?
いやいや、そんなことはないでしょう。なぜなら、一人が誤った評価を下しても、そのほかは、そこそこまともな評価をしますから。
今この瞬間、もてはやされていなければ、やはり「自分にはなにがしかの価値はないんです。」それをいかに認めるかーそこに自分の存在価値があるのです。
同級生が言った衝撃の一言
高校時代、友人から辛辣なことを言わました。「あなたって、人をモノのように見てるよね」。全く自覚がなかったので、ただの言いがかりとスルーしました。そもそも人をモノのように見るってどういうことかの想像もつきませんでしたし。
しかし何十年も経った今、何が言いたかったか分かります。私はとんでもなく傲慢でした。自分を飾り立てるために利用するという視点でしか、人を見ていなかった。それは私もそういう扱いを受けてきたからです。
親という立場を得るための子ども、孫のいる祖父母の地位を築くための孫。じいちゃん、ばあちゃん、父ちゃん、母ちゃん、と呼んでいた人々が、世間の風当たりを避けるために、私を利用していました。
一人一人の個性になど目もくれず、立場を守るための強要ばかり。頭の良さ、礼儀正しさ、彼らを尊敬する姿勢。げんこつで頭をグリグリして、有無を言わさず、よい子のふり、従順なふりをしろと。
そんな育てられ方をしてきたから、人は自分のために使うものだという強固な観念が出来上がってしまったのです。
今できること
人を使うことしかできないヤツが豊かな人間関係を作り、相手を成長させられるでしょうか。幸せになれるでしょうか。
そんなの聞くまでもありません。1000%ありませんね。
だから、独りぽっちなんです。誰にも相手にされないんです。
ただこのことに納得すると、誰かを怨むことなくいられます。かといって自己否定の渦に飲まれずにもいられる。今の自分は、出来上がるべくして出来上がった必然、と受け取れるようになります。
肩肘張らず、等身大の自己を受け入れてる人はそれだけで魅力的です。その人の前でだけは無理に立派な人間を装わなくてもいい、という気楽さがあります。
すごい技術や立派な地位がなくても、魅力的になれます。要は、どこで自分はどうしようもないヤツだと認められるか。
人と距離を置かざるおえない今だからこそ、自分のへっぽこさに向き合ってみてはいかがでしょう。