多分本気で褒めてくれてるんでしょう。けれど、言われて嬉しい反面、なにか心にどんより来る言葉、じわじわと真綿で首を絞められるような言葉ってありませんか?
言葉は人を縛ります。未来を拘束します。その息苦しさが、辛い気持ちを引き寄せる。いったいどんな褒めがそうさせるんでしょう?
結果が未来を縛る
私達は、誰かが思わぬ好成績を残したとき、賞賛を送ります。「100点か、すごいな」「ホームラン打ったんだ!!」相手を讃える気持ちを存分に言葉にするでしょう。
これが当人どういう効能を生むか。言われた瞬間は、「やった!100点ってすごいと言ってもらえた」「ホームランを打ってたの見ててくれたんだ!」と、喜びでいっぱいの気持ちにさせてくれます。しかし無意識下では、こう思います。「次回は、100点じゃなかったら賞賛はされないんかな」「次席で、ヒットも打てなかったらガックリされるんかな」と。
結果にフォーカスした褒めは、同様の結果を生まないときはどうなってしまうんだろう?という不安を生み出します。それゆえ、褒め言葉は、未来もそうあらねばならないという拘束へと変容していく。
せっかく手にした結果を褒めることによって、未来が奪われてしまうとしたら、好成績をたたき出したことは、実に残酷ではないでしょうか。
好成績を出せば出すほど身動きできなくなる
いくら自由奔放でも、掛けられる言葉を意識しないでいられるわけではありません。【100点取ったことを褒められた私】→【100点取ることを期待されている私】→【100点とって当たり前の私】と変化していき、セルフイメージと現実が合わなくなったとき、自己崩壊が起こります。
100点とる私というアイデンティティーが崩れ去ったとき、人は人でありながら、人ではなくなります。今までコツコツと積み上げてきたものが、全部無意味に思えて、じゃあ自分は何なんだ?何のために生きてるんだ?と、人生の根底をひっくり返されるのです。
食べるとか寝るとか、そんな基本的なことでさえも、やってるのがばからしくなって、生態的欲求によって動くことはあっても、意思をもって動くことはなくなります。なぜなら、意思をもってやってきても結局はひっくり返されてしまうんだと、身を以て体験したから。
成績抜群の子が、小学校高学年くらいから退廃していき、生気を失ったように見えるのは、心の中でこの自己崩壊が起こっているからなのです。
辛いことを辛いと言えるのが健全
この状態を本人は正確に理解していません。なんとなく、もうイヤになった、ばかばかしくなった、生きててもしょうがない、と思うだけです。親が丁寧に聞き取りを試みたところで、「ウルサイ、バカ」とドアにモノを投げつけられる。
辛いけど、辛いって表現できてないんですね。そのもどかしさが、ドアにモノを投げつけるという行動に表れています。辛いことを辛いと言えないというのは、本当に辛いのです。自分でもどう辛いのかが分からないんです。
かといって親にも心当たりがない。
そういうときは、力の残されている側(親)が、相手の辛いを表現できる手助けをしてやるといいと思います。具体的には結果に触れずに、相手の「意思」を見る。
「結果」は手放せ
思い返してみるのです。子供がふさぎこむ直前のことを。自分たちは、子供が出してくる「結果」ばかりに気を取られてなかったか。そうやって子供を追い詰めてやしなかったか。子供は本当はどんな「意思」をもって毎日、勉強にスポーツに、お手伝いにいそしんでいたか。
たぶん、とっても単純に親に喜んで欲しかったはずです。そのために、一生懸命、目の前のコトに取り組んできた。それこそ心が折れそうになっても、やめたくてしょうがなくても、親の喜ぶ顔が見たい、そう思って、必死に外の世界に対抗してきたのです。
その「意思」を1%でも汲んでもらったとき、やっと辛いと言える入り口に立てるのですす。そこから先、辛かった思いが吐露されるかも知れないし、また元の世界に戻ってしまうかもしれない。
それでも、親は二度と「結果」を口にして子供を苦しめてはならない。子供の「意思」を口にして、崩壊したアイデンティティーを一から作り直す手伝いをしなければならない。と思うのです。たとえばほんの小さな手伝いをしてもらったら、「手伝ってくれて(結果)、ありがとう」ではなく、「手伝おうとしてくれて(意思)、嬉しかった」と言葉にする。
これならば、「手伝おう」と思ったこと、つまり意思そのものが、肯定されたという気になり、空っぽだったアイデンティティーに1ピースが添えられた気になるのです。
私達は長年、「結果」を褒めるということに慣れ親しんできました。しかし、もうそのやり方は限界を迎えているように感じます。先のとおり、「結果」に目を向ければ、未来は拘束されてしまう。褒めれば褒めるほど、人々は辛くなっていく。
だから「結果」はもう手放しませんか?誰かを追い詰めるための褒めなんていらないと思います。