愛するペットを不注意で亡くしてしまったら…想像するだけで胸が痛いです。けれども、そういうのは珍しくなくて、ちょっと目を離した隙に脱走して事故に遭う、大型犬にかみつかれて負傷する、食べてはいけないものを口にしてしまう、安全と思っていた屋内で思わぬトラップにかかる、などなど予想もしないことが起きて、死亡事故が起きてしまいます。
悔やんでも悔やみきれません。飼い主はなんとか気持ちを整えようと、ブログやツイッターに思いを書き出します。すると、コメントしてくるのが、同じようにペットを失った経験のある飼い主さん。
ただし、なかには自分のペットロスを吐き出そうとしている方もいます。いや、むしろそれがほとんどかもしれない。
人は心の中に成仏しきれない感情を抱えていて、ちょっとしたきっかけで、その思いを再整理しよう試みます。それ自体悪いこととは思いません。けれど、不注意でペットを亡くした飼い主さんの気持ちは置き去りになりませんか。
うまく言葉で表せないのですが、なんというか、「結局、人の事を思いやれる人って、ごくわずかで、ほとんどの人は自分・自分・自分なんだな」というがっかり感があります。
人を思う、すなわち思いやりの精神って一体なんなんでしょうね?
根こそぎこそげとられる行為
私達は、人の胸中を想像するのが苦手です。だから、相手が苦しい胸の内を吐露すると、「大変ね」「苦労が絶えないわね」というものの、その先踏みいることはありません。
代わりに、「私もね…」「知り合いがね…」と話を切り替える。なぜなら断然ラクだからです。そして思いの丈を吐き出した後、”あっ、自分ばかり話してしまった”と反省して、フォローの言葉を付け加える。
そういう応対を受けると、吐露した側は、”私が苦しかったのに、相手が苦しいを聞かなきゃならなくなちゃった。誰にも分かってもらえないんだな”と寂しくなります。
分かってほしくて話したのに、分かってあげなくちゃならない側にさせられた。これって、搾取です。持たぬ人から無理矢理奪い取るみたいな、わずかに残る精神力をこそげとる行為。
だからヘルプを出しにくくなります。ヘルプといったら最後、骨の髄まで取られてしまうのですから。
大人になりきれてない大人
いつから私達はそのような自己中心的になってしまったのでしょう?
元からです。大人という名にふさわしい成長を遂げていないんです。
赤ちゃんのときは、みんな自分のことばかり。それが成長するにつれ、意識を周りに拡げていきます。ところがそこで止まってしまっていて、いつまでたっても思いやりが小学生並。
べらべらしゃべる自分に比して、相手の話は一向に聞いてあげられない。
子供っぽい大人が増えました。
自分の感情を自分でぬぐえるのが大人です。さらに、弱い人が自分の感情をぬぐえるようにお手伝いをすることもできる。人を育てるとは本来そういうことではなかったか、と思います。
少しだけ自分を押しとどめてみる
大人でも嫌なことがあって酷く落ち込んだり、不安に取り憑かれて生活がままならなくなることもあります。そういうときは、遠慮なく助け合えばいい。けれどもそれは、思いあった日常があってこそです。
私達はそれほど人を思いやれているでしょうか。むしろこの悪例のようにちょっとしたきっかけで、自分話を展開してはいないでしょうか。
少しだけ意識して、ラクな方向へ流れてしまいがちな自分を押しとどめてみてはどうでしょう。そこから、思いやりのある大人としての一歩が始まると思います。