私はいわゆる世間でいうマイノリティーな生き方をしている子供のいない結婚をしている。
子供のいない人生を描いたのは、7歳のころで、DINKSといった言葉が出てくる十数年前のことだったと記憶する。大人になって、子供のいない人生を選択する人はそこそこいるだろうが、小学2年生で選んだというのは稀であろう。
裏を返せば、それくらい自分が生まれてきたことに疑問を持っていた。小さい頃は、周りから理解を得られず、ずいぶんと叩かれたものだ。それでもめげずにここまで来たというのは、なかなかなものだと自負している。
ところで、この選択子なし。意外なところで功を奏することに気がついた。子供のいない私にも人様に役に立てたのだから、とてもありがたいことだ。
子を失った親を痛めつけずにいられる
親族に死産した者がいる。無事に産まれてくるのを今か今かと待っていたら、出産予定日の数日前、心臓が停止していると分かった。子の誕生を心待ちにしていた親たちの落胆は計り知れない。
ここでもし、私が子を成した親であり、彼らを慰めようとしたら、どのようなことが起きるか。
恨みが起きる。彼らの中に、あなた(私のこと)は子供がいるんだから、所詮他人事でしょう、と。持っている者と持たざる者の溝は深い。それも持ちたくて持てなかったとすれば、なおさら。
それが選択的とはいえ子を成しえていないのであれば、彼らの悲しみに下手な感情が入らず寄り添うことができる。なぜなら、私という存在が「彼らの子を失った」という状態を脅かさないからだ。
要は子のいないことで、子を成した人にも残念ながら成しえなかった人にもフラットに対峙できる。これは、持たざる者の強みとも言えよう。
マウンティングをせずに済む
子を持つ人が密かに自負していること、それは「私は子供を産み・育てたんだからね!」という意識。たしかに出産は命がけだし、人ひとり育てるには多大な労力がいる。
しかしその偉大さに賛辞を送られることは少なく、だからこそ子のいない夫婦を見つけると、これ幸いとばかり「子供を産まないのは国家に対する反逆」とののしる。そうやって、憂さを晴らしている。
こうせざるをえないのは、出産や子育てに対する周りの無理解によるものだが、理由はどうあれ憂さを晴らしている姿は、醜い。子供がいなければ、出産や子育てに対して賛辞を送られたいといった欲とは無縁でいられる。
本当は自らの意思で出産を決め、自分で子育てを選んでいるのだから、賛辞を送って欲しいなどという甘えをもつことそのものが、姿勢として大いに誤っているのだが、それを自覚できる者は少ない。
こちらは叩かれ損な気はするが、自分からマウンティングをせずにいられることは、魂の尊さを保つ上では有意である。
人を叩かずいられる
マイノリティーとして生きることは、叩かれる人生を選び取ることでもある。叩かれる人生を選ぶということは、叩かれる痛さを知る人生を歩むと言うことである。
叩かれることは、心をすり減らし生きる活力を奪う。そうされた人は、叩くことの無意味さを我が身をもって知っている。だからむやみに人を叩いたりしない。人には人の個別事情があって、その人の中の正義が一番なのだと、よくよく知っているからだ。
海援隊の贈る言葉のなかに
「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから」という歌詞がある。まさにその通りで、悲しみを知らずにいるものは、不遜で物知らずだ。人は熟成するにつれ、より多くの可能性を想像し、安直な結論にしがみつく愚行を慎む賢さを身につける。
叩く人は「我が正義ここにあり」と勝ち誇ったような顔をして、その実、ろくに可能性も想像できぬ大馬鹿者である。そのバカさ加減に気づくことなく生きるは、おめでたいことではあるが、リスクヘッジが下手すぎる。
子を持つ親の一番の拠り所は「私が死ぬとき、子供なら看取ってくれる」。しかし、叩く人ほど子供の心を潰す傾向にあり、子供が成長するにつれ、疎まれ足蹴にされる。はて、親があの世に召し上げられるとき、さんざん心を潰された子供がどこまで親に懐柔してくるのであろうか。まさにリスクは∞である。
人を叩くことのできぬほど何をももたぬ人生はいい。叩く材料がないから、叩こうという発想すらない。弱き者は弱き者の強さというのがある。
ない、ない、と嘆くことなかれ。ないことにこそ、生み出せる価値がある。少なくとも自分が誰かを傷つける存在ではない、というのは大いに強みだと私個人は思うのだ。