ほとんど話さすおとなしい人は暗いとされ、おしゃべりであちこちに顔を出す人は明るいとされる。表面だけ見れば、そうかもしれない。けれども明るいからといって社交家とは限らない。単にウルサイとか自分語り大好きといった自分没入型の奴も中にはいる。
だったらおしゃべりさんと社交家は何が違うんだろう。
全然人と交わっていないおしゃべりさん
ずっとずっとしゃべり続ける人がいる。大好きなスポーツの話から、財産の状況、はたまた親戚のあれこれまで、よくもそれだけ語れるねと半ば呆れるほど、次から次へと言葉が出てくる。
そういう人はこちらのあきれ顔になど気づきもしない。ただただ満足いくまで、あれの次はこれ、これの次はそれ、と思いつくまま口にする。いちおうしゃべり続ける人を無視するわけにはいかないので、周りは顔を歪めながらも、「そうですか」と合わせる。
するとおしゃべりさんはますますご機嫌になって、サービスのつもりで話続ける。
これを「人と交わっている(社交)」と表現できるのか、というと「一方通行的(独演)」の方がしっくりくる。話してる人から聞かされる人へと太っとい矢印が向いていて、向きが切り変わることは一切ない。
ずっとずっと一方通行では、聞かされてる方はつまらない。つまらないまま時間が過ぎると、話してる人のことがどうでもよく思えてくる。だから「早く終わらないかな」「あの仕事どうなってるんだろう?」などと関係のないこと考えはじめ、ますます交わることから遠のく。
無口な社交家
ではしゃべらなかったらどうだろう。ぶすっと黙っていれば、関わりたくないんだなオーラが人を遠ざける。
けれども話しかけられたことに丁寧に答え、相手に話をさせるよう水を向けるのならば、いくら口数が少なかろうとそれなりに相手に関心を持ってるんだな、と一定の理解を得られる。
そしてたまのボソっ、が鋭く的を射ていたならば、無口が魅力的に映ることさえある。面白いひと言に惹きつけられて、無口な社交家の周りに自然と人の輪が出来ることだってあるだろう。
社交家らしい社交家
分かりやすい社交家は、無口な社交家のさらに上を行く。来られるのを待つのではなく、自分から相手を知ろうとし、話をさせようと仕向ける。接点を持つ前に相手を調べ、知り、話し始めをシミュレートしておく。話が始まったら、相手の言葉をヒントに話を先へ先へと後押しする。
そうやって「どうやったら相手が話しやすいか」に心を砕く。そこまで出来るのは、この場に参加していることと直接関係なくても、「自分がここにいられるのは(回り回って)あなた方のお蔭」という気持ちを忘れずにいるからだ。
優れた経営者はたいがい恥ずかしがり屋でシャイである。しかし、元の性質に甘んじることなく、「どうやったら相手が話しやすいか」に腐心することで、社交的な人格を有している。
それはまさに、田坂広志先生がおしゃるように「自分の中にふさわしい人格を育てて」いるのである。この「育てている」という意識を持てないうちは、真の社交家とは言えない。たんにおしゃべり好きのウルサイ奴止まりだ。
おしゃべりさんが嫌われるわけ
社交家は「相手に関心が向いている」のに対して、おしゃべりさんは「自分に関心が向いてる」。そしておしゃべりさんは、自分以外の誰かに関心を向けられるのが面白くない。かといって社交家らしい社交家に敵意を向けると取り巻きに恐ろしい仕返しを食らいそうなので、控えめな性格の無口な社交家を相手にウサばらしする。
もちろん賢く無口な社交家はザコの戯れ言と相手にもしないが、それでも聞いてるフリをしてあげるので、おしゃべりさんの心はなんとか平静を保てる。
端から見ると、人によって態度を変えるこざかしい人間は付き合うのにふさわしいとは思えないし、なにより人を使ってウサばらしする態度は見ていて気分が悪い。だから、おしゃべりさん本人は気づかないだけで、周りにそうとう嫌われている。
おしゃべりさんは捨てられる
残念ながらおしゃべりさんには賞味期限が存在する。
健康だったら、会いに来る元気があったら、ごちそうしてくれたら、付き合おう。そういう条件付きの付き合いがおしゃべりさんとの付き合いの限度だ。周囲はその人本人を愛しるんじゃなく、その人の持ってるものにメリットを感じてかろうじて繋がってるに過ぎない。
従って、健康を害し奥にひっこむと、誰も訪ねてこなくなる。こうなって初めて付き合っていると思っていた人々との関係性が露わになる。人間、なにも持てなくなったときこそ、真の姿が白日の下にさらされる。
社交家気取りで「あんな人とも、こんな人とも付き合ってきたのよ」と自慢する人が最期独りぽっちになったとしたら、それはホンモノの社交家ではなかった証拠。
多弁と社交家は違う。社交家とは、なによりも相手のことを考えられる優しさを備えた気づかいの人である。