幼い子供は、どんなひどい親であっても離れようとしない。生きぬくための方法だから。
それを子供に好かれてるからと勘違いしたり、親として十分やってやってるからタカをくくってると、大人になった子供に見放される。必要最低限しか家に来ない、何年も連絡をよこさない。
思い通りにならない我が子に不満を抱く親は、「あの子は恩知らずだ」とののしる。周りも、「子は親を慕ってあたりまえ」を強要してくる。
でも親がどんなヒドい人間であったとしても、親を敬い、慕わねばならないのだろうか。盲目的に愛さねばならないのだろうか。
その画一的であれ、という風潮に疑問が残る。
子供を痛めつける親
嫌われる親には共通点がある。
それは価値観を猛然と押しつけてくること。正しいと思うことは、たいして調べもせずに、一方的に押しつけてくる。ピアノが情操教育にいい、体操教室は小さいときからやるべし、やはり大学は旧帝大etc…。
考えることに慣れていない子供は、親の価値観を丸呑みにするよう仕向けられる。そして、親の価値観に背くと、否定や無視のような冷たい仕打ちを食らう。
そんな中、親に受け入れてもらいたくてたまらない子は、不本意であっても親の価値観に沿った行動をする。だが、それは同時に、自分の中の価値観を裏切ることになる。だから大いに心が痛む。痛んで、痛んで、痛んで、心の底では一日でも早くここから脱したいと願う。
そして訪れる経済的な自立の叶う日。この日がやっと我が身を守れるスタート地点なのだ。親から離れてはじめて、心が救われる。
子供を支えてやる親
反対に子に好かれる親は、価値観を押しつけて来ない。意見を言うことはあっても、かならず当人がどうしたいのか、どうしたがっているのか、を優先する。
子供は自分の考えを言っても、全然怖くないどころか、人生の先輩としてのアドバイスももらえるため、ことあるごとに相談するようになる。それも相談すればするほど、価値観がブラッシュアップするので、年月とともに寄せる信頼が厚くなる。
だから経済的自立が訪れた後も、どうしようもないと思ったときは親を頼る。自立する前も後も、親はかわらず一番の支援者だ。
子を痛めつける親なのに、「そばに居ろ」と?
一緒にいると心が痛めつけられる親と、支援を受けられる親。まったく逆のこれらを、「親」というキーワードが共通するからといって、はたして同等に論じられるのだろうか。とくに片方は心が痛めつけられているのに、「親のそばに居ろ」と強制できるのだろうか。
痛めつけられるのに一緒にいろと言われるのは、「オマエの心、死ね」と言われるのとおんなじである。
ただ単に、あるとき一つの精子と卵子が受精し、受精卵が分裂を繰り返し、32兆個に分かれて生体を形作ったから、といって、精子と卵子の元となる人体のために心が死ななければならない理由がどこにあろうか。
むしろ先に滅びるであろう元の人体なんかより、若い命を優先すべきではないだろうか。
心が死ねば、遠からず肉体も死に近づく。親世代が子世代を滅ぼしてどうする?
何も知らなければ、口は挟まない
子供の内心は子供にしか分からない。経済的に恵まれていようが、能力的に恵まれていようが、幸せであると決めつけたりはできない。むしろ、そんなもんどうだっていいから親に支援者であって欲しかったと願う子供の方がずっと多いのではないかと思う。
肯定されることが生きる活力であり、人生に充実をもたらす鍵である。その肯定を十分に与えられぬまま大人になり、社会に溶け込めずウツウツとしている若者のなんと多いことよ。
ならばこれ以上彼らを傷つけないためにも、周りが「親を大切にしなさい」などと口を挟むことは控えたい。一口に親といっても、いろんな親がいるのだ。