「自分が格下に見られて軽んじられる」と悩んでいるアナタ。こんな行動をしていませんか?
【気を利かそうと先回りする】
あなたは習ったはずです。「周りに気を配ろう、優しい子は気遣いのできる子よ」と。だから今でも”こう助ければ、相手はスムースにできる”と思えば、躊躇せず手を貸してあげる。
その考えは尊いし、一部の年配者から賞賛されるでしょう。でも何度もやってくうちに、「やってくれてありがとう」が、「やってくれて当たり前」に変質して、「なんでやってくれないの!」の怒りに変わる。あまりの身代わりの早さにあなたは驚きます。
そして思うのです。「なんで、感謝され続けないんだ?」
あなたは手を貸してあげてるわけですから、本来であれば、感謝されこそすれ、怒られるいわれはないんです。なのに、そうはならない。
だとしたら、あなたが想定したストーリーが誤っているのです。
なのでここはいっちょ、ストーリを修正してみますか!
ありがた味は薄れていくもの
どんなに優れたものにも、いずれ飽きはきます。高層マンションの夜景がきれいでも、毎日見られるなら、見なくなります。それどころか、マンションのエレベータが遅いとか、洗濯物が外に干せない、とか、マンションならではの不便に目がいく。
欲にゴールはなく、今あるものにプラスして、もっともっと、と際限なく何かを求めてしまうのが、悲しいかな人間の性。これは対モノだけでなく、対人間についても同じ。一度優しくしてくれたら、とことん優しくしてくれることを期待します。
ということは当然、期待する優しさが与えられなければ、不満に思います。文句を言います。あなたは、与えることを強要されるのに辟易しているのではありませんか。だったら、最初から「私はなんにもあげませんけど」という予防線を張っておきましょう。
予防線の張り方
安易に教えない、手を貸さない。あくまでも相手がヘルプを求めてきたときに、「それじゃあ」といって渡す。こうすると相手の頭の中では、借りが一つできるので、「次もまた頼んだら借りが増えるし、やれることは自分でやろう」という気になるんです。つまり際限なく求められるのを防げます。
”そんな不親切な…”と思うかもしれません。でも先んじてやってあげる、ということは、相手がヘルプも出せないんだろう、と見くびってるのと同じ。見くびるのと、相手はヘルプを出せるんだと信じて待つの、いったいどちらが誠実な応対なのでしょう?
結局あなたは相手に手を貸すことを優しさとはき違えて、相手の自主性を奪い、それがもとになって相手を付け上がらせているんです。えらーいえらーい王様を自らの手で作り出しているんです。
部下を育てるのも、子供を育てるのも、「相手を信じて待つ」のが一番大変。間違うかもしれない、恥をかくかもしれない、ケガをするかもしれない。その恐怖に打ち勝つのは並大抵ではありません。
格上扱いされるのは精神的に強い人
普段私たちはあまり意識をしていませんが、自分を育てようとしてくれる人を無意識に「上」に位置付けます。手を出さず見守ってくれる人は大切なメンターであり、「格上」に見るようにできています。
それは、人間の位(くらい)を決めるのは、精神の崇高さにあるとわかっているからでしょう。恐怖に打ち勝つ大変さに立ち向かい、受け入れようとする姿は、俗世とは一線を画す厳しさを放ちます。その荘厳さにしばしひれ伏したくなるのかもしれません。
どれだけ手間やお金がかかっていたとしても精神的に楽な選択は、「格下」扱いを受け、反対に精神的に苦しい選択は、「格上」扱いを受ける。では、あなたが日常やってる選択は精神的に、「楽」と「苦」のどっちでしょうか。
その選択を変えるだけで、周りのあなたを見る目が変わります。
身近な家族に対して、まず「手を出す」ことをやめませんか。きちんとヘルプを出させましょう。