クライアントの影響で、アガサクリスティの「春にして君を離れ」を読みました。
主人公のジョーン・スカダモアさんはそこそこ成功した夫を持つ子育ての終わった主婦。遠方の次女を見舞った帰りに足止めを食らいます。そこで彼女は暇つぶしもかねて、知人に手紙を書きます。
ジャネットへ
わたしがどこでこんな手紙を書いているか、あなたにはとてもおわかりにならないでしょうね。砂漠の真ん中ですの。汽車がくるまでの間、ここで足止めになっていますのよ!その汽車というのが…(以下略)
春にして君を離れ アガサ・クリスティー
自分がジャネットだったとします。これを受け取ってどう思うでしょうか。
おわかりにならないでしょうね → そりゃそうだ。あんたの状況なんて知らん
砂漠の真ん中ですの→ だから?
足止めを食らっていますのよ! → ふーん
私ならこう感じます。
ジョーンとしては、「あらまぁ」な状況もジャネットからすると「それを言われてもねぇ」です。ジョーンはジャネットではありません。よってジョーンの思いを書かれたところで、ただの迷惑でしかないのです。
これをわかっていない人が現代にも結構います。
たとえば友達にLINEで、
「今日は極厚のパンケーキ食べたよ」
パンケーキ写真添付
「おいしかった♥」
と書く人がいます。
自分のうれしかったことは相手にも伝えて「あげよう」と【ご親切】に写真付きで報告。
でも受け取った方は確実に「この情報いらねー」と思うでしょう。
これくらい送る側と受け取る側には意識差が生じているのです。
だとしたら、思ったことをそのまま書くというのは、かなりリスキーです。十中八九あきれられる。
これを避けるにはまず思ったことを書いてはいけない!と意識すること、そして読んだ人にどんな風に感じるのかを想像すること、が必要だと思います。
感動を誰かと分かち合うのは意外と難しいことです。それなりに頭を使わなければ、経験した者と未経験の者の差は埋められないのです。