私はずっと、自分に存在価値を見出せなかったので、人に何かをやらないといけない、という思いに取りつかれていた。
相手が来ることを「来てくれる」と勘違いでも書いたように、相手に楽しんでもらおうと、あの手この手でもてなしてるつもりだった。
ところがなぜかもてなしを受けた側は嬉しそうじゃない。
お礼や、楽しかったよ、の言葉はあるのだけど、また今度!といったリピートがないんだ。
一度でおなか一杯、という感じ。
私と会うのは一度でいいのか?この場所は一度訪れれば満足なのか?
私の中に、なんとなくすっきりしない気持ちが滞留する。
もしや私はもてなす意味を解ってなかったのではあるまいか?
もてなしの本質とは
もてなしの本質とは、添えられた「心」だと思う。
ー人を喜ばせたい、楽しんでもらいたいー
そういうやさしさこそが、もてなしの神髄。
したがって、相手が喜ぶ、楽しむものでなくてはならない。
ところが、自己中心的な私は自分の喜ぶものを相手の喜ぶものと取り違える。
だからなのか、ヒヤリング時間が短い。
相手の楽しいに込められた想いをきちんとくみ取っていない。取りこぼしたそれに、真に喜ばせられる何かがあったかもしれないのに。
相手不在のおもてなしは、もてなしの形でありながらもてなしの核に欠ける。外から見た分には楽そうだが、肝心の中身は楽しくない。
やはりもてなしは、中も外も一致させるべくどこまでも相手の考えや興味に自分を寄せていくものだと思う。
特に私みたいに特異なものの考え方をするタイプなら、なおさら。
慶弔事に隠されたおもてなし
もてなしの心は慶弔事の中でこそ、発揮される。
たとえば結婚する人への贈り物。
海外では結婚するときにウイッシュリストなるものがあって、夫妻がほしいものを書いておくのだそうな。
ところが友人たちはもっといいものがないかを探し出し、それを贈る。
それで欲しいものと、贈られるものにミスマッチが起きる。
もてなしの気持ちも、夫婦のリストに込めた思いを無視してしまうと、効果が失われてしまう。箱を開けた夫婦のガッカリ感は相当なものだろう。
たとえば葬式の帰り道。
お骨を持って家路につく途中、おなかが空いてレストランに寄った。なにも言わず亡き人の分までコップや箸を用意してくれた店員さん。
リストがなくても、言葉にしなくても、心中を察し、さりげなく心を配る。
相手の本質を見極めた、心温かいふるまいだ。もてなしを受けた人は生涯その心遣いを忘れることはないだろう。
我を張ればもてなしではなくなる
先の例のようにもてなしは、もてなされた側の感じ方が一番大切。
そのことを忘れ、「私がもてなさなくては!」と気張ると、もてなしが押し付けに変化する。
その変化の境目に立ったとき、我々はどれだけ相手に寄せていけるだろうか?
私は私が押し付けてるのを何度も目撃してきた。
後悔も山ほどしてきた。
それでも辞められない。ということは、それだけその瞬間キビシイ立場に置かれているということ。
己の我を張りたい欲と我を収めたい気持ちが激しくぶつかり合い、我を張りたいという自分が勝利してしまっているということ。
おもてなしというのは、そのキビシサを乗り越えられる人だけが施せる一つの徳なんだと思う。