会う度に隣にいる人の違う恋多き女。
そんな彼女を羨ましく思った貴女。
相手が見つからない、相手にされない。そんな人にとって相手がいるなんてすばらしいこと、と思っていないだろうか。
でも内実、恋人がいない人とそう変わらない。
人はなぜ恋をするか
人が恋をするのは、人がひとを求める性質を持っているからだ。
私たちの思いは物質的な対象に向けられるが、社会的存在である私たちは何より「ひと」に思いを向ける。この思いは乳幼児期には親へと向かって強くはたらき、それが関係性の発達をうながし、やがて特定の異性に対する深い成人性愛的な思いへと発展する。そしてその異性との間に子どもが生まれれば、思いは今度は生まれた子どもへ向けられて、成長を育むちからとなる。
引用 子どものための精神医学
出発点である「思いは親へと向かって強くはたらく」段階で、しっかりとはたらかせることが出来れば、成人性愛的な思いへとスムースに移行できる。
ところが出発点でコケてしまうと、成人してからも親へと向かい・親から向けられるであろう思いを貪るようになり、節操なく恋を求めるようになる。
恋は多くていいことなんてない、といえる理由
すると、来る者拒まず、来なければ追いに行く、という「肉食系」の行動に出る。
これは一見すると「リア充」に見えるかもしれないが、本人は虚しい。
補充してもしても、なにかが足りない。
実際相手を変えてばかりというのは
- 大切な人を見極められない
- 相手を信じられない
- 一人の人に思いを持ち続けられない
- 自分の決めたことを支持し続けられない
といった「自分」と「相手」への不信が原因だから、虚しいもの頷ける。
この話で分かりにくいという人は親に置き換えてみると分かりやすい。
お母さんが10人いたら、リア充か?
ほとんどの人がNOだろう。お母さんは一人で十分だ。
愛する人はたった一人でいい。
ラーメンとひとを同じに考えるから失敗する
あなたは何ラーメンが好き?
と聞かれたとき、生まれてから一度しか食べたことがなければ、答えようがない。
それが醤油も豚骨も、魚介も、鶏ガラも食べたことがあれば、「これ!」と答えられるだろう。
従って多くの体験をすることが、最適な解を見つけ出すこと、といえなくもない。
ただ、ラーメンとひとは一緒なのか?という問題が残る。
ラーメンは消費するものであり、代替品があって当たり前なのに対し、ひとは消費するのか?代替品で片付けられるのか?
やはりモノとひとは違う。多少の難はあっても、やはり手放せないのがひとへの思いではないだろうか。そこを、「思い」がなんたるか知らずに成人してしまったゆえに、頭の中でラーメンとひとの混同が起きてしまった。
もし貴女が恋多き人をうらやましいと思うならば、貴女もまた「思い」に対する理解が足りていないのである。
幸せになるために必要なのは恋愛の多さじゃない
幸せそうなカップルと不幸せそうなカップルの差は、難の多さではなく、相手にかける思いだ。
「この人へ思いをかけていこう」と決めて、子どものころ親に向けていた思いを相手に向けていく。
そうすれば、絆という形で成就する。
その絆をどこまで太く出来るか、が幸せの度合いだと思う。
眞子さまが婚約された。
きっとお相手との絆を何年にもわたって育まれたのだろう。
そこにはラーメンのような、あっちの味も、こっちの味も、というフラフラはない。
秋篠宮様・紀子様との親子の絆を辿るように、お相手との絆をゆっくりと静かに紡いでいかれたことと思う。
幸せに生きるとは、本来、恋心をこういった形で絆の太さへと変えていくことではないだろうか。
多くの恋人を作ることは、幸せとは違う。貪り行為だ。
たくさんの異性を知ってることに目を奪われて、羨ましがるもんじゃない。
結局、誰とも絆を築けないなら一人身も恋多き女も、同じ「虚しさの壺」の中にいるのだから。