「嫌われる勇気」という本がベストセラーになりました。
初めて読んだ時スラスラ読めるものの、「ガツン」と心に残るものがなくて、私とは相性悪いのかな?と思ったこともあります。
特に「嫌われる勇気」という題名が、ハードルの高さを感じさせて、「嫌われたくないよぉ~」という小さな自分が地味に抗うのです。
もう少し別の言い方を考えてみようと思います。
鳶が鷹を産むをヒントに
私たちは周りからつけ込まれないように、バカにされないように、常にバリアを張っています。
小心者である私は、その最たるもの。
賢く装い、ムキになって反論し、とにかく負けまいと必死です。
仕事に従事しているときは、なおさらその傾向が強かった。
男性ばかりの職場にぽつんと女性が一人。なめられないように、「だから女は~」と言われないように、必死でした。
でもどこかで本来の自分ではない、かりそめの姿であることに違和感を感じていました。
私の親はけして頭の良い方でも要領がいい方でもない。もちろん美形でもなきゃ、突き抜けた運動神経があるわけじゃない。
そんな人の遺伝子を継いだ私が、飛び抜けた人間であるはずがないのです。
私は何を勘違いしていたのでしょうか?
平凡な親が我が子にはスターでいて欲しいと願ってしまったがために、私は私にそうであることを課しました。
ただ実際は鳶遺伝子なんですから、頑張ったって鳶止まり。鷹にはなれそうにありません。
だったらいっそ、鳶でよくないか?と思ったのが、今。ちょっと遅すぎますかね?
鳶ですから頑張らなくてもいい
これまでは妙に力んで鷹と同列になろうなろうともがいていました。
鷹になれない自分を嘆き、自己憐憫に浸った回数は数えきれないほど。
でも、結局私は鳶です。
悠々とは羽ばたけないし、かっこいい口ばしを持ってるわけじゃない。
そもそも鷹と争うなんて意味ないんです。
美人は美人の領域、頭のいい人は頭の良い人の領域、運動できる人は運動できる人の領域にいればいい。
鳶である私は、アダルトチルドレンを救うことに心血を注ぐ領域にいる。
それでいいじゃない。
鳶ならではの居場所で、スキルを磨いて、鳶で一生を終えるのも悪くありません。
みんなから愛され、請われ、大事にされると真逆の、ひっそりと生息し、たまにお役に立てて、居れば居たでいっか、と思われる存在でいい。
そういう気の抜けたスタイルも、もしかしたら現代の心の休め処として必要かもしれないし、ね!