先週見たドラマ「あなたのことはそれほど」の中の「人を罰するのは爽快ですよね」って台詞が頭から離れません。
みなさんはこの「爽快さ」、ありますか?
私は、あります。
実際に行動にでなくても、脳内で罰して、スカッとしています。
そしてを無理に辞めようとは思いません。
考えるだけなら害はないので。
それより「そんなことを考えてる私、許せない。罰したいなんて気持ちさっさと捨てな」といい子ちゃんぶる方が問題だと思います。
消えることのない「人を罰したい」という気持ち。あなたはどう向き合っていますか。
罰することは楽しみ
人を罰するのは爽快です。絶対に火の粉のかからない場所で、思う存分相手を叩きのめせたら、神になった気分が味わえます。
そういう時って、相手の悪さがどうということではなく、自分がどれくらい正しいのか、を確かめたくてしょうがない。
だから生け贄を見つけ次第、全てを押しつけて、最もっぽい理由をつけて責任を取らせようとする。
そうしていれば、私の地位は盤石なものとなり、つかの間の自信さえ生まれる。
罰してさえいれば見なくていい
罰している最中は、私が神ですから、自分の欠点に目を向けなくて済みます。
相手を叩いてると、どんどん興に乗って、もうなんでもアリみたいな気になってきます。
相手の人権?
そんなものありません。相手が「悪い」のですから。
神の私がそういうんだから間違いない。
こんな偉そうな圏まで突き抜けてしまったら、私の欠点なんて彼方へ吹き飛んでいってしまいます。
罰することは地獄への入口
書いていて思いました。
罰するって本当に気持ちいいですね。
でもそれは同時に自分を地獄へ突き落とすことでもあります。
誰かを生け贄にして、裁くということは、自分もそうされることを意味します。
自分がやって爽快なら、他の誰かがやっても爽快。
いつ自分が誰かのために生け贄にさせられるか分かりません。
そんな日が本当に訪れるかはっきりしないうちから、「私もそうされたらどうしよう」という不安が頭をもたげます。
不安を打ち消すかのように、また誰かを罰しようとすれば、不安が膨れあがる。
無限ループ化してしまって、不安から抜けられなくなってしまうのです。
罰するのは生き抜くための手段だった
罰することで自分の欠点は見ずに済み、爽快という報酬が得られるこの性質は、精神的な逃げ道を作ることで自死を防ぐための本能かもしれません。
ですから、私は一方的にそれらを悪者扱いする気にはなれない。
ただ、本能を本能のまま使うのがいいのか?というと、議論の余地はありそうです。
必要のない防衛をすれば、人と人の隙間は広がって、終いには切れてしまいます。
人間が一人一人完全に独立して生きられるのならば、それでもいいのかもしれません。
ですが、我々は人と接し、人から与えられることで、アイデンティティーを認識します。
健全なアイデンティティ-の育成には味方が必要です。
だから味方を敵にしてしまうことにつながる罰する行為は、行き過ぎな防衛なのです。
必要なのは受容ではないでしょうか。
爽快さを感動に転じる
我々は混沌としていた中に、正しいと思われる道筋が引かれると、爽快さを感じます。
それすなわち、裁きです。
でも人を裁けるほど偉い人なんていません。
だから爽快さはある程度諦めなくてはいけないのかもしれません。
代わりに心温まる「感動」を引き寄せる。
人を受容する温かみを取り込むことで、誰が神とか偉いとか、という上下関係から卒業できます。
自分が罰しられるのでは?といった不安からも抜けられます。
ビジネス上の上下はあっても、人に上下はありません。
そのことに気がついたら、最低でも裁こうとしてる自分に「ちょっと待った~」くらいは出していきたいものです。