公共の場でキャッキャと走り回る子供。それをみてお母さんが「静かにしなさい!周りに迷惑でしょ」と叱るのは毎度のパータン。
けれどこの風景になにか大切なものを置き忘れていないだろうか?
焦る親
私たちは「人の迷惑をかけてはいけない」と教わってきました。だから我が子が迷惑行為をしてると、「しまった!周りからなんか言われる」と身構えてしまいます。そこで慌てて「コラー、ちゃんとしなさい!!」と大声を上げます。
これで一過的に子供は大人しくなりますが、強制的されたがゆえに少しばかりの理不尽さを抱きます。
ですから、しばらくしてまた同じように騒ぎ出すか、言われたことをコロッと忘れて次の日に走り回るか、します。
本当に分かって欲しければ理不尽さをなくす
子供は素直で賢いです。理由をキチンと理解できれば、態度を正します。
まっさらで何にも染まっていない頭だからこそ、一から教わったことに忠実にいられるのです。それも大好きな親から納得のいく形で教わったことなら、なおさら。
私たちは大人が偉くて、子供は未熟だ、と一方的に決めつけていますが、子供の思考力は目を見張るものがあります。どちらが優れているかなんて言えません。
大人は子供よりちょっとだけ知ってることが多いだけです。
「迷惑をかけてはいけない」で思考停止してるから余裕をなくす
「迷惑をかけてはいけない」をまんま受け入れた親は、これを正解と信じて疑いません。だから周りから「迷惑をかけるんじゃない!」と言われたら、小さな声で「ごもっとも」と言うしかない。
そんな風に生きてれば、すべてのイレギュラーな事に謝り、子供を怒鳴って従わせるしかなくなる。
こんな焦った気持ちのまま子育てしてたら、当然余裕なくなりますね。
イレギュラーありきの世界で生きてみる
子育てなんて、想定外の連続です。
こうしよう、と思っていても、全然そうならない。
そのとき理想に忠実であろうとすればどうなりますか?
生きて目の前にいる子供の心を犠牲にせざるを得ない。
ー親が自分の味方をしてくれなかったー
という小さな禍根は、後々の親不信へとつながっていきます。
親は概念と向き合わなくてはいけない
理想はあくまで理想です。いつもくっきりかっきりできるわけじゃない。
かといって、子供に好き勝手やらせていいわけはない。
そこで「『迷惑をかけてはいけない』とは何か」という概念と向き合うわけです。この概念をこの場面に適用するとすれば、子供になんて言ったら分かるだろうか?と。
子供が理解できる可能性を信じて、賭けてみる。
周りから「早く黙らせろや!」というチャチャが入っても、ブレずに根気よく諭していくのです。
そのために、本気でその場で考える。
廊下を走ってはいけない理由、座席に靴のままのぼってはいけない理由、公共の場で大きな声をだしてはいけない理由を面倒がらずに真面目に考える。
親が真面目に取り組めば、子供は親をまっすぐ見つめます。そのとき子は親を尊敬する。僕に何かを伝えようとしてくれてるんだな、と愛情を感じる。
余裕とは「とりあえず」を辞めて「考える」こと
習ったから、決まってるから、周りがそう考えてるから、という理由は子供には通用しません。
そういう意味で子供は大人よりずっと賢く、ズルができないのです。
まっすぐな子供の心に正直な気持ちで答えるには、たとえ不格好でも親が納得する回答を見つけるしかありません。
でもそうやって親子で考える時間が持てたとき、もはやそれは「騒がしい時間」ではなく、「考える時間」となります。
「とりあえず」と言えばいうほど言葉の力が失せ、親への注目度がなくなります。
親と子で一生懸命考える。とくに親は子供に一緒に考えて欲しい、というスタンスをとり続けることで、散逸していた気持ちが集中へと変化します。
そうすれば、余裕も生まれますね。
ですから「とりあえず」といって流されることなく、その場で「考えて」みてください。
多少時間が掛かっても、それだけの価値はあります。
《参考記事》
best-times.jp