いつも自分から誘うばかりで、相手から誘われない。
試しに誘うのを辞めてみたら、連絡が来ない。嗚呼、私って友達じゃなかったのね…。
という悩みに多くの人が振り回されています。
かつての私もその一人。
それが今や平気のへっちゃらぺ。
何がどうなって、そういう境地になったのかをお話したいと思います。
誘われないと苦しんでいる人に読んでいただきたいと思います。
誘われることにこだわる理由
あなたはなぜ、誘われることにこだわるのでしょう?
それは誘われることが自分の価値と深く関わっているからです。
きっと心の中で「誘われるってことは好かれてるってこと。人から好かれるってことは、存在価値が高いってこと。つまり誘われる人ほど、人としての価値が高いよね」と思ってることでしょう。
誘われる == 人としての価値が高い
誘われない == 人としての価値が低い
という考えを持ってる人にとって、誘われないことは死活問題です。
誘われないこと自体、人としての価値を著しく下げてしまうことですから。
同じモノを欲しがって争っても無駄
誘われない人が次に取る一手は、「最近誘ってくれないね」という相手に対して「そっちが誘ってよ。いつでも待ってるから」というもの。
しかし待てど暮らせどあちらからの誘いはなし。
しまいに待ちくたびれて、疲れ果てます。
では、なにゆえプッシュしても相手は誘ってこないか、というと、「断られるのが怖い。段取りなんて出来ない」からです。不安でいっぱいだから、怖くてなにもできない。
これでは誘えないのも無理ありませんね。
かといって一人でいると「予定がなくて寂しい」と、「誘われる」ことは求めます。
つまり、誘う人も誘われ待ちの人も、「誘われる」ことを強く求めているわけです。
どちらも同じモノを欲しがっているので、取り合いになります。
この取り合いに円満な解決がないことは明白です。
一段上から見る
互いが、「人としての価値が高い」と自認するための「誘われる」を取り合っても無駄なことは分かりました。
では次に出来る事は、というと
考えを変える!
そもそも他者から「誘われる」ということを以て、自分の価値が決まること自体は正しい考えのでしょうか?
人に保証してもらって自分の価値が決まる、ってなんだか不安定じゃありませんか?生かすも殺すも相手次第(苦笑)。
そんなに相手に振り回されてるから、疲れるのです。
この悪循環から抜けるには、自分の価値を自分で決めましょう。
「私は他者によって自分の価値が決まるという固定概念を持ってる。その概念が我が身を苦しめてるんだから、さっさとそれを外そう」という一段上からの目線を持てばいいんです。
自分の価値を自分で決めるとどうなるか?
当たり前ですが、他者に何かされることは求めなくなります。
同時に他者にも何かする必要がなくなります。
「誘ってよ」の言葉に「私は自分のことをするから、誘って欲しいなら他の人に言った方がいいよ」と突き放せますし、それでも食い下がってくる「あなたしか友達がいないのよね」攻撃に対しても「友達が私しかいないのは、あなたの事情。私に執着しないで、別の人と仲良くしてね」と言えます。
これによって手にするのは「孤独」です。
自分と他者がくっついていたのが、きっちり境界線が引けて、互いに独立する。
誰の影響も受けず、自らの考えに忠実な己を手に入れるのです。
でも人間の出来てる人ってたくさんの人に囲まれてない?
確かに出来た人は、多くの人に囲まれています。
けれど注意して観てください。出来た人は常に何かを分け与えています。
「敬意」「尊重」「承認」といったものを、惜しみなく与えています。
たくさんの人が寄ってくるのは、それらが心地よい報酬だからです。出来た人の傍にいれば、普段の自分に自信が持てなくてもその時だけは「受け止められたような、認められたような」気になる。蜜のある花にハチが引き寄せられるように、心地よい報酬に人々が引き寄せられているのです。
あなたは今、そういうものを人に与えられますか?
むしろ欲しいと思っていませんか?
そう思ってるなら、まだ他者と関わる準備ができていない。
「孤独」でさえも自分のものにしていない。
「孤独」をモノにして他者による保証からきっぱりと足を洗い、他者に与えられるモノを見つけだし、報酬として与えることができるようになったとき、望み通りの誘われる自分が手に入るのです。
でもきっとその頃には、そのこと自体には興味のカケラも抱かないことでしょう。もう他者に何かをしてもらわなくても、立派に自分の足で立てるんですから。