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梅宮アンナさんがご自身の出身地である「渋谷区松濤」が一番と胸を張り、港区を田舎・練馬区を地方を切り捨てた痛烈発言について、収録していたスタジオでは大笑いが起きたというが、まったくもって情けない話だと思う。
笑いは起きたのはなく起きざるを得なかった?!
自分を頂点と錯覚し、他をバッサバッサ切り捨てる行為は、ともすれば「差別発言」と取られる。
だが公共電波に乗せて堂々と差別したとあれば、発言者だけでなく放送局の倫理にも問われる。従って、「笑い」に換えておどけて見せることで、差別から差別カラーを取り去って事なきを得たのが件の成り行き。
笑ってもらえたことで、発言者は救われたかもしれないが、このような発言を問題視しない風潮はいかがなものかと思う。
敬意や良識に、欠けるのではなかろうか。
そもそもなぜ差別発言をする?
梅宮さんが渋谷区をこよなく愛するのはいいと思う。地元を愛する心は美しい。でもそこで留めず、比較を始めた。あれよりスゴい、これよりずっとスゴい。
こんなことをしなくても、梅宮さんの中にある地元愛は十分に伝わる。
それなのに彼女は周りを潰しに掛かった。正確に言えば、頭の中に即座に「私の地元以外は認めない」という考えがよぎった。彼女が持つ独自の思考だ。
人と比べたがる人というのは、自分の考えに自信がない。自信がないから、人を蔑んで自分の立ち位置を相対的に上げようという考えが浮かぶ。もうその思考に囚われているのだ。
地元を愛する気持ちを表現する手段は幾通りもあるのに、たった一つしか選べずにいる思考の狭さに気がついていない。
物事に絶対はない。すべて解釈の範囲。その絶対性のなさゆえに、愛を語ることは許されるが、差別することは許されない。
彼女は母となり、力強く生きて行くのならば、そのような思考の虜にならされていることに気づく位の客観性は欲しいところだ。
これと対極のメディア
これと対極的にあるのが、リクルートが手がける結婚情報誌ゼクシィのCM
「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」
のナレーション。
多くの人が共感や賛同を示している。
「誰も否定しない、比較しているようで比較していない」ともっぱら好印象。
言いたいことは言う、けど誰も傷つけない、誰も貶めない。そういう賢さが求められているのではないだろうか。
相手をこき下ろすことでバレること
こき下ろすということは、こき下ろしたい衝動に駆られていることを示している。言い換えれば、示された考えを平然と受け取れない心の弱さを証明している。
弱くて、おぼろげなくて、危うくて、だからすがれるものはなんでもすがりつく。その情けない態度が故のこき下ろし。
かっこよくもなんともない。むしろちょっと恥ずかしい。
「渋谷区松濤」がすごくて、「品川区」がすごくないといったことは一切ない。
そこに住む人、働く人にとって唯一の大切な場所なのだから、どこも貴重な場所である。