あなたの信じる正義。それが邪魔して、事態を悪化させているかもしれません。
一度自分の正義を見直してみませんか。
嵐の日に気づいた正義の誤り
風の強い嵐の日。テラスに出しておいた鉢が倒れた。
倒れっぱなしがなんだか哀れで、少し風の弱いところにおいた。
しばらくして見に行くと、また倒れていた。今度は勢い余ったのか、土がこぼれている。根が露出してさっきよりダメージが広がった。
もし最初から放置しておけば、こうはならなかったろう。植物にはかわいそうなことをした。
私が勝手に”鉢とはまっすぐ立っているものだ” と思い込んでいて、そのような形に戻そうとするから、被害が広がった。
「風が強い」状況に向き合わず、無理に自分の正義にを押し切った結果、悪い方へ転んでしまった。
生活の中にある正義への固執
嵐の日のことは生活のさまざまな場面にも起こっている。
- 十分な給与で豪華な暮らしをしていたのが、会社が傾いて給与が下がったのを無視して以前と変わらずの暮らしを送ろうとして、破産したり
- ハリのある肌をしていたのが、年を取って自然とハリが失われたのを諦めきれず美容整形をして、メンテナンスなしでは生きていけなくなったり
- タバコを好き放題吸っていて気胸を起こし、手術後退院したら喫煙を始め、さらに重篤な症状になったり
検挙にいとまがない。
もちろん子育ての場面でもこのようなことは起きている。
- 代々立派な学歴の人を輩出してきた家系だから、子供が勉強嫌いでも、「うちは勉強できる家系。専門学校などいかせられん!」と押し切って、親子断絶になったり
- 父親が野球上手だから、子供がサッカーをしたいといっても、「お父さんのDNAを継いでるんだから、サッカーじゃなく野球をやりなさい」と部活を変えさせて、子供の信頼を失ったり
生活の隅々まで頭にこびりついた「正義」が悪さをする。
制度にまで及ぶ正義への固執
これは個人の問題にとどまらず、制度にまで及んでいる。
- 前例がないからとチャレンジをことごとく否定する頭の固い官僚たち
- 商業習慣といって、戦争直後の習わしを利用して意味不明の手数料を取る土着産業
- 過去に判例がないからと、新しい見解を示した裁判官を袋叩き
これでは臨機応変どころか、時代が変わっても、昭和時代のまま生きるから~っていってるのに等しい。もう、平成終わりかけですよ?
そして特筆すべきは裁判官叩き。「この裁判官は慣例どおりでない判決を出して目立とうとしている」とか的外れな批判。こんなことしてたら、時代に沿った判決は望めなくなる。
どれだけ慣例に沿った「正義」が正しいと言うんですか? たんなる悪習慣でしかない。 議論はその時々やってこそ意味がある。
自分の石頭に気づく
ある考えが過去にどれだけ良かったとしても、それはその時代・その環境だからこそ。
晴れが嵐に変わったように、状況は刻々と変化する。
なのに「晴れの日はこうだったから、(嵐の)今もこうあるべき!」と正義を掲げるのは、ただの石頭。石頭ヤロウ以外に益はなし。
むしろ状況を無視した判断に、周りはいい迷惑。
自分が思い込んでる正義を分かってますか? それが「正しいと思い込んでる」ってこと、理解してますか?
人間だれしも思い込みはある。
でも思い込みを思い込みとわかってる人と、思い込みであることすら気づけない人がいます。
思い込みは思い込みとわかることで、それを解くことができる。
まずは自分の石頭を省みるところからです。