誰かが声を掛けてくれる
ーどうしたの?ー
それに答えられない自分がいる。
答えるのなんて、とても簡単でしょ! と思うかも知れないが、一定の環境下で育った人間にとって、どうしたの?は文字通りの意味ではない。それは失意の始まりだから…。
答えたくても答えられない
豊かな環境に育った人にとって、「どうしたの?」は心配してくれてることを示す言葉であり、困ったことに手を差し伸べてくれる可能性を感じてホッとする。
しかし劣悪な環境に育った者にとって、「どうしたの?」は情報提示の強要を意味し、ひと度困っていることが知られてしまえば「厄介払いされるのではないか」といった恐怖に襲われる。
同じ日本語でも、育った環境下によって、取る意味は全く変わる。
どんな子でも生まれた直後は、「どうしたの?」という言葉に素直な自己開示を試みる。それが開示する度「そんなこといってるから、あなたはダメな子なんじゃない」と言われたり、「そんな面倒事知らないわよ。自分で解決して」とあしらわれたり、「たいしたことないから我慢しなさい」と我慢を強いられたりするうちに、”どうせ、ろくな反応しか返ってこない” と学び、「いや、なんでもないよ」と無難に返すようになる。
答えようとして、強い力でねじ伏せられたから、答えるのではなく(相手の望みに)合わせるに路線変更したのだ。
答えたくないんじゃない、見えない巨大な力を前に、答えることを諦めたんだ。
「どうしたの」を無理に聞く怖さ
「どうしたの?」
聞かれる度に、小さな心は「あのね…」といいたくて仕方が無い。でも、思い切って内心を打ち明けてみても、その先に広がるのは荒野。言葉が風にさらわれて消えていく。
”せっかく言ったのに” という気持ちを幾度も抱くのは虚しいから、心のチャックを閉める。
そのチャックは、”ここなら話しても大丈夫” と思える人に出会えるまで、開くことはない。
どこか斜に構えてクールを装う人は、心のどこかで「聞かれること」を諦めている。
「答えたくなくて答えないんじゃない、諦めざるを得なかったんだ」という事実に目を向けられない大人は、「答えなくていいんだよ」という選択肢を子どもに与えない。
「こんなことくらい答えられない【はず】がない。」そう決めつけて、口を開けと脅迫する。
ただでさえ人に不信感を持っている人間の心を、バールでこじあけようとする行為に素直に従う子どもがどこにいるだろうか?
親切心は、時に鋭い刃となる。
本当に相手のことを思うなら、相手が話したくなるタイミングを待つしかない。
自分だけで推し量らない
私ができるから、あなたもできる
という考えに立つと、他人を理解できなくなる。
[「どうしたの?」に答える ]
こんな小さな事も、ものすごく大きな事として捉える人だっている。
だから、自分の【はず】を持ち込まない。
答えたくても答えられない、という心情を理解しようとし始めるとき、やっと「どうしたの?」の会話の入り口に立てるのだと思う。
相手の価値観の中で話を聞こうとすることが、話そうという気持ちをそっと後押しするのだから。