あの子がいいな♪と思うから、お近づきになろうとあの手この手を繰り出して仲良くなろうとするけれど、いまいち距離が縮まらない。それどころか、遠くへ離れてく、という経験ありませんか?
自分の気持ちや行為が裏目に出てしまうのって、悲しいですよね。
今日はそのメカニズムについて考えてみようと思います。
ある店で起こっていた出来事
サービス業に従事するサビ子さんは、店を繁盛させようと、思いつく限りのサービスをしていました。サービスを受けたお客さんは皆喜び「ありがとう」と返してくれました。サビ子さんはその言葉を聞いて自信を持ち、ますますサービスに励みました。
ある日店が混雑していて、常連さんに挨拶できぬままお帰りいただく、ということがありました。”店が混んでたからしょうがないよね”と思ったサビ子さんは、気にもとめずその日は終わりました。
それから数日して、また常連さんがお店に来ました。「こんにちは。本日は何がご入り用でしょうか?」と尋ねたサビ子さん。お客さんと一通り商品を選びにこやかに別れました。
しかし、常連さんはそれ以降二度とお店に現れることはありませんでした。
常連さんはなぜ来なくなった?
一見するとサビ子さんの対応には、何の落ち度もありません。
お客さんは、何が不満だったのでしょう?
整理してみると
- サビ子さんは日頃から一生懸命サービスしていた
- 混雑などの予想外の出来事に、常連さんに挨拶できないなど、多少の粗さはあった
- それをカバーすべく、後日常連さんのお買い物に終始つきあった
サビ子さん側から見ると、これ以上できないほどの尽くし様です。嫌われる覚えはない。
でも、現実嫌われてる。
そこでお客さん側から見てみます。
- いつもサービスに励んでるサビ子さんに好印象を抱いてる
- 忙しいときは、常連だからって特別扱いする余裕もないだろう。でもちょっと寂しい
- 後日お店に行ったときは空いてた。サービスは頑張ってくれた。でも○○○。
問題は、この○○○です。お客さんが望んでいたのは、いいサービスを受けることではなく、別の何かをされること。
そう、この○○○に入るのは
寂しかったという気持ちを汲んでくれなかった
えっ?と思うかも知れませんが、それだけです。
後日来店したときに、「先日は混雑があったとはいえ、ご挨拶出来ず大変失礼しました」という一言が無かった。ただそれだけ。
常連さんは、なぜその店を贔屓にしていたかというと、品揃えはもちろん自分を上客として大切にしてくれるから、でした。
でも混雑という予想外の出来事に遭遇して、自分が上客だというのは思い込みだって気がついたんです。
店は、私が意識してるほど、私を大切に思ってはくれてなかったって。
その落胆が、常連さんを店から遠のかせたのでした。
優しさは人を遠ざけ自分を追い詰める
この例のようにどれだけ意気込んでサービスに励んでも、相手のニーズに応えることができなければ意味がないのです。
100のサービス精神より、わずかでも相手の希望を叶えるほうが価値がある。
同じように、思いつく限りの優しさを差し出しても、的を外してれば意味はありません。
【自分の思いを押しつける怖さ】と、【相手の思いを取り損ねる怖さ】を胸に刻まないと、上手くいかないのです。
そうならないように、何にも先んじて相手に敬意を払う。そうすれば先に続く優しさが効いてきます。
反対に敬意は払わないけど、仕事だからとか、人気取りのために、といった理由で優しさを演出すれば、人を幻滅させてしまいます。
問題はこれだけに留まりません。このメカニズムを知らずにいると、大きな問題が起こります。
頑張っても頑張っても報われない徒労感が襲ってくるのです。
意識の上では、「最上級に優しくしている」と思っている分、目の前で起きてる事象との乖離に困惑する。もう何もやってもダメなんじゃないか、という気持ちに囚われて、人生を投げやりにしてしまうのです。
全てのことに通ずる「敬意」
もしかしたら、これは全ての商売に当てはまることかもしれません。売れる物というのは、消費者の潜在的ニーズや不満を解消する要素を含んでいます。メーカーが消費者の声にならない声まで根こそぎ拾おう、消費者がまだ意識していないけど欲しいと思ってるものを形にしてみよう、という敬意を込めたとき、”分かってくれた” ”受け入れてくれた” という安堵が生まれ、消費行動へと繋がるのでしょう。
何事も成り立つには人からの支持が必要です。その支持は相手の望みを満たすことで得られる。
優しくしなくちゃ、という気持ちに強迫されてつい自分よがりになってしまう自己を戒めて、敬意を持って相手に接することで、真の繋がりが生まれるのだと思います。