若い女性が自分たちを如何に高く買ってくれるかを競ってる。分かるんだけど、堕ちてる感じが否めない。
私たちは自らを消費材に扱い、価値を煽り、高値がついたことを喜ぶ。
それでいいんだろうか?
私たちは自分がいくら、と算出することが出来ない。
そこで他人に値段をつけてもらおうとする。
高ければ喜び、低ければ不満を抱く。
パパ活などは、最たるもので、高い値がつくほど、私には価値があるのだと誇りに思う。
しかし別の側面から見れば、値段をつけなければならないほど、その存在は希薄。
自ら光を放つことのできぬ星は、他の恒星から照らされぬと存在すら気づかれない。
自分の存在意義を見いだせないから、今持っているものについた値段が、私。
自分で生きるんじゃなく、人にぜんまい巻かれてる。
それもまたいいんじゃない、と思うかも知れない。
永遠に若く、永遠に美しければ、それでいい。しかし時は残酷にも、若さを奪い取る。
値付けされることを是とする女性は、自らにババアという烙印を押す。
自らが自らの首に手を掛けている。
価値をつけることは、同時に無価値を作ることでもある。若き日の自分が、年老いた自分を苦しめる。
消費材には使用期限がある。
トイレットペーパーは10年もたてば、きっとボロボロだ。もって2~3年。
その間に是が非でも消費されなければならない。でも、消費されないことだってあろう。
材料なら心がないから、期限が来てある日ぽいっと捨てられても、あっそっか、で終わる。
でも、もしそれが人間だとしたら・・・おぞましい以外の何物でもない。
だが、実際に起きている。
婚活市場で、年齢の高い女性を除外する動きがある。
女性の価値は若さだと。本能が求める以上、若さは譲れない、と。
じゃあ、本能ってなんだ? 本能が空腹だといったら、目の前の人からパンを奪ってもいいのか?
若い女性がいい!という割に、パンを奪うのはよくない、という倫理観。
そんなの倫理感じゃねーよ、とぼやきたい。
パンとパートーナーじゃ、向き合う時間が違うから、比較になんないって?
時間の問題なんだろうか。いや、むしろ時間の問題じゃないか。
長く付き合うからこそ、時と共に大きく変化する消費材ではなく、尊敬や敬意の方が大事ではないか?
即物的な反応は、ガチの消費材にだけ向けるのが正しい選択じゃないんか?
小さいとき、早くお嫁さんにいくのよ、って言われた。
学なんか積むより、嫁にいくのがいいのよ、と諭された。
生まれたときから、我が娘を消費材に見立てる親。それを受け入れる子供。
当たり前のように物としていつづけた人達が、規格外の野菜のように、ゴロゴロとこの世界にいる。
その人たちは、自分たちに染みついた消費材としての価値を脱ぎ捨てることが出来ない。
だから規格外であることに苦しむ。そして規格外である相手を嫌う。
なぜ規格品でなくてはならないの?
私たちは人だ。一人一人違う人だ。
いろんなことを思って、いろんな矛盾を感じて、いろんな表現をする。
その違いをなぜ、愛おしいと思わない? こうしろー、あーしろー、と押しつける?
たぶん社会性というのは、受け入れられた先にある完成形だと思う。パンクファッションもいいよ、詞を書く君も素敵だ! そうやって、「ザ・自分」を受け入れられた先に、尖った自分を捨て去る時がくる。
規格に近くなってく。
最初から自分を持つな!規格品でいろ、というのは、自らの心を押し殺せ、といってるようなもん。
結果として出てくる普遍性は、最初から普遍的であることとは別物。
生物だから、多様性がある。なにかに統一されなくてもいい自由がある。
材料には、その自由がない。きれいに並べられて倉庫に収納されることが大事。だから、自発性は要らぬ。
誰かに高値をつけられるために、自発性を捨てる人々。だが、人は完全に心を捨てることは出来ない。
捨てる、捨てないでせめぎ合う中、無駄にすり減ってく心。
なぜ、そこまで価値の確定を他人に頼る?
どうぜ全員規格外。あなたの価値を正しく計測できる人なんて、いやしない。
求められるより前に、自分が認めようよ。
使うとか使われるとか、みみっちぃ世界を卒業しようよ。
人に認められなくても、孤独でも、それを背負え。覚悟しろ。
その気迫をもって、あなたはあなたとして誕生する。