もうすぐ父の日だ。
自分の父親とはどういう存在なのだろう?と思うとき、苦い思い出しか浮かばない。
県内トップの高校、名門の大学を出ても、日常はゴルフ、スポーツ中継視聴、殺人事件などの小説読書、買い物で埋め尽くされている父親。
知的さのカケラはどこに・・・?
学歴を積めば、即賢い人認定されるわけではない。
世の中では常に新しい知見が見いだされ、常識は書き換わる。
故に、活字を通して、また言葉を通して、自分の深めたい知識を探求するのが知的な人間の生き様ではなかろうか?
しかし、父がサラリーマンであったときすら、専門書の類いを読みあさる、昇格試験を受けるために勉強するといった様を見たことが無かった。
端的に言えば、学び変容することに、まったく興味が無い人なのだ。
父と同じ年くらいの方が、歴史を学び、仏門の名著から教えを学び、賢人から知惠を学んでいるのに比して、なんと即興的・欲望的生き方をしているのだ、と我が父ながら落胆してしまう。
私の知的さがないのも、この親にして、この子ありということなのだろうか?
もう少し、学びに貪欲な人の子に生まれたかった。