私が未来に絶望して、死にたい願望に取り付かれている理由。
それはー明日はいいことがありそうという気がしないからー
これだけを見るとチープな発想にみえる
しかし、明日に希望を持てない、いいかえると明日もっといい自分に会えないことは、だらだらとした明日を偶然迎えてしまうことにつながる。
「今日も明日も変わらないなら、今日で人生終わっちゃってもいいかな」と考えても不思議ではない。
そして今日めちゃくちゃ嫌なことがあれば、なおさら、明日なんて来て欲しくないだろう。
では、なんでまた明日に希望を持てないか?というと、
失敗する、怒られる未来しか予測しないからではないだろうか。
小さいときに親に
「だから止めときなさいっていったでしょ!」
「なんでこういうことするの?」
と言われた人は、せっかく芽生えた主体性が途端にしぼんでしまう。
やらなけりゃいい、動かなければ悪いことは起きない。
そういう概念を内在化したまま大人になると、未来に対して希望が持てなくなるのは当然。
一方で、親から
「残念だったね」
「次はきっとできるよ」
と言われた人は、自分がやった行為を認めてもらえたので、しぼみかけた主体性は保たれる。
失敗しても次がある、やれば何かを習得できる。
そういう概念を内在化して大人になると、チャレンジ精神と粘り強さをもった生き方ができる。
インターネットがなぜ人にいい影響を及ぼさないのか、テレビをみることはなぜ人生を豊かにしないのかいえば、こういうものを受身的に視聴するのは、だらだらと明日を迎えることと質的に変わらないからである。
自分でやって、自分で喜びも悔しさも味わって、自分を味わう。
これが人生なんだと思う。
早寝早起き、ToDoリストをつくる、PDCAサイクルを回す、家の中を片付ける、目標を掲げるといったことは、すべて一つの道につながっている。
それこそが、主体的に生きるということ。
主体的に生きた結果として、早寝早起きになるかもしれない。もしくは遅寝遅起きになるかもしれない。
早寝早起きがすばらしくて、遅寝遅起きがだらしない、なんてことはない。
自分の身体にあったリズムと社会性を考慮した上で、主体的に遅寝遅起きを選んだならば、それは十分解になりうるのだ。
要はこれからやることを、自らが意識し、舵取りし、上手くいかないならば修正を重ねることが大事。
環境が悪いほど、周りに流され、人のせいにするという受身的態度を取りがち。
そんなときこそ、自分の力量が試されるのだと思います。