友達がいない
誘われることがない
そのことに悩む人がいます。
過去の私もその一人。
何がいけないんだろう?
人との約束はちゃんと果たすし、礼儀も忘れないし、相手をけなすこともしてないのに。
でも今日映画プロデューサーの話を聞いて、ちょっと分かった気がします。
脚本家はお客が映画の展開について行けるように、きちんきちんとステップを踏む。
対して、自分は編集の時に、あえてそのステップをばっさり切ると。
スコーンと飛んだ方が面白いこともあるんだそうです。
実は人と人の関係もそーじゃないかと思います。
絵に描いたような展開、先の読める会話、それはハラハラもドキドキもしない。
人間は感情を揺さぶられたときほど、記憶に残るものなのです。
世界史の授業を淡々と聞いていても全然記憶に残らないのに、歴史上の人物の人生を通して出来事をひもとく授業をすると一度聞いたことは忘れないのと同じ。
その人物の屈辱、悲哀を感じるからこそ・・・ なわけです。
さて、「自分」という人間にクローズアップしたとき、「自分」はどんな返しをしているでしょう?
いわゆる優等生的返し、予定調和的返しをしているように感じます。
誰の感情も揺さぶらない、裏切らない。
そんな私のことを記憶に留める人がどこに居ましょうか?
だから、私は忘れられる。
極めて単純で美しい論理です。
では、人の感情を揺さぶる、人を裏切るためにどうしたらいいのか?
頭のキレをよくする?常識を逸脱した行動をする?
でも、大概やり過ぎると、周りから引かれます。
そして我々常人には、その程度が分からない。
下手な鉄砲は、数を撃っても外れます。
本当に自分が取り組まなくてはならないのは、【自分の生き方】です。
人の目を気にしている人間は、どうしたって人の想定の外に飛び出すことは出来ません。
反対に、自分を生きている人はどうでしょう?
自分で決め、自分の力で進み、結果その人にしかない経験を蓄える。
自ずと話す言葉はオリジナリティにあふれ、変わったことは何一つしていないのにとても輝いて見える。
そうです。自分の生き方の軸を他人基準から自分基準に置き換えさえすれば、自然と魅力は増します。
友達が欲しい、人に必要とされたいと思っているうちは、まだ他人軸で生きています。
「私はこうしたい」という考えに変わったときに、はじめて人付き合いに変化が訪れる。
友達はつくるものではなく惹かれあうもの。
無理な流れを起こして撃沈するより、生き方そのものを問い直しましょう。