思われることに注力する人々で書いた「思われる」ことについて、一体誰が主語なのかイマイチ分からない。
相手に思われる では、主語がない。
ということは、自分が相手に思われる ということ?
「自分」が主語?
自分自身をはっきりと捉え切れていれば、あえて相手からどう思われるかなど気にしない。
「自分が自分をこう思う」 で おわり。
ところが、自分自身を捉え切れていなければ、まずそこをハッキリしないと、恐くて人と接することが出来ない。
だから「相手が自分をこう思っている(と自分が理解する)」ことが何よりも優先される。
人は全員自分のために生きているので、よほどのことがなければ相手の自己像評価のために自分が使われるのを快く思わない。
そんなの、勝手に自分でヤレである。
これが常に人からどう思われているかを気にする人が疎ましがられる理由だ。
主語がハッキリしない文は、責任を取る人が不明瞭である。
そのようなもやもやした状態で何かを求めることは、雲を掴むようなもの。
掴もうとしても、掴もうとしても、手は空(くう)を横切るだけ。
この際、もやもやは捨てて自分がこう思うを掴む努力をしてはどうでしょう。
自分がこう思うから、そうなんだと腹をくくり、イメージを固めることで、自信と責任が持てるようになります。
もしイメージが現実と違えば、違うと感じたときにイメージを壊して作り直せばいいのです。
「わたしはわたし」
という単純な言葉が腑に落ちるまでは、永遠と自分探しの旅が続きます。
そして腑に落ちることは確約された未来ではありません。
どこかで自分の考えを自分の意志で作り出す必要性があると思います。