心の流れBlog

心の守り方を考える

私の家族はウソくさい

いつの頃からだろうか?
私は自分の家族(親と兄弟)をウソくさい集まりだと感じていた。

それは私だけでなく妹も感じていたようだ。

正月や盆には集まり、仲良く写真に写っていても、どこか残るウソくささ。
それについて改めて考えたい。

バラバラな人達

私たち一家は、家族の誰かが困っていても、心の底で「そんなの自業自得、自分でなんとかしなさい」と思っている。
基本的に突き放しており、本気で心配する、とかはない。

もちろん、世間で言われる慣例(仏事、慶事)はそつなくこなす、盆も正月も集まる。外から見れば仲良し家族だ。
だがそれは「そういうもの」という思いからやってるだけ。

こういう雰囲気は私が小さい頃からあった。
親せきの集まりは、決まりだから出席していたのであって、誰かに会いたいという気持ちはなかった。
祖父母に対しても、「会うのは義務だから」。
おじいちゃんやおばあちゃんにあって、甘えられるといった経験はなし。線香の香る辛気くさい家で、よい子として振る舞わなければならない窮屈さに辟易していた。

このように私と血縁で結ばれた相手と私と心で繋がることなく、また私以外の人同士が繋がるといったこともなく、とってもキレイにバラバラな一族だった。

父と母もバラバラ

父と母も、いつもバラバラ。
力を合わせて、とか、「お父さんの言うことだから」や「お母さんに感謝してる」みたいなやりとりさえなかった。

今でも年賀状も別々に届くし、交通費もバラバラにもらう。

父と母になんらかのまとまりを見たことは一度もない。
代わりにあったのは、父を責める母、母に切れる父、といったすさんだ風景。

まさに機能不全家族。

何が足りなかった?

こんな繋がりもへったくれもないウソくさい家族に何が欠けているのか?
あまり考えたこともなかった。

でも大人になって、本を読んだり、ドラマを見たりして、なんとなく欠けてるものが分かってきた。
そして数年後、気づいた。

私の家族には、「人を信じる力」がなかったんだ!と。

誰かが何かに取り組もうとしているとき、そっと見守って、裏で「きっと出来る!」と信じてやる、といったことが皆無だった。
どんなときでも「出来なかったとき、どうするつもりなの?」「できなかったら、私(親)が手を抜いたと思われるじゃない!」という攻め一方。

とにかく保身のために、子供だろうがなんだろうが、潰して潰して、なにもさせない。
それが親が心血を注いだことだった。

……我ながら情けない家族だ。

統一していない家族に生まれる悲劇

父も母も互いに思いやることのできない中で、産み落とされる命。
それは果たして幸せなんだろうか?

私たち4人の兄弟は幸せなんだろうか?

彼らは全うな社会生活を送り、既に次世代の命を育んでいる。

結果論で言えば、産んで幸せだったんじゃん、と言えなくもないが、その実どの個体も心の中はすさんでおり、生きてることに懐疑的で自分に優しくなれない。
兄弟で集まったときに流れる冷たい空気感がそれを物語っている。

結局動物として命を産み落としたところで、人間としてのぬくもりを与えてやることが出来ないなら、それは無駄なんじゃないか?と私個人は思っている。
あんな冷たい家族に生まれるくらいなら、生まれないほうがマシだった。

そういう感覚を子に抱かせてしまう親って、どうなんだ?って思う。

今、「生きていたくない」「死んでしまいたい」という子が増えていて、その裏に、親というユニットがきちんと形作られていない背景が存在する。

親は子を幸せにする義務がある。だったらまず親となる自分ら(夫と妻)の気持ちを一つにまとめることをしないと。
互いがバラバラだと、それがウソくささに繋がって、子に伝播する。
そしていつか、子の心をむしばむ。

そんな悲劇を生まないためにも、私は、子を産む前に自分らは人としての繋がりをつくる力が備わっているかを確かめる必要がある、と声を大にしていいたい。