心の流れBlog

心の守り方を考える

小さな違和感-言葉

私のブログを読んで下さっている方は、きっとお気づきだと思う私の文章の欠点。
→目線がうろちょろしすぎ。

自分目線で書いたかと思うと、相手目線で返したり、世間の目線に移動したりが前振り無く行われるので、読んでいる人を戸惑わせる。
そんな目線も含めて、言葉の使い方に焦点を当てて考えてみたい。

お恥ずかしい、私の言葉の使い方の数々

文章の一番単純な構造は、【主語】が、【目的語】を【動詞】する。
たとえば、「あなたがトウモロコシを食べる」。
ところが私がトウモロコシ農家だった場合、「あなたにトウモロコシを食べていただく」と表現してしまう。

簡単にへりくだるのだ。

またあるときは、られる・されるを多用する。
先と同じような構造をとり、
たとえば、「あなたがわたしを傷つけることを言った」と言えば分かるところを、「わたしはあなたの言葉に傷つけられた」と表現する。

被害者意識が強い。

簡単にへりくだって、被害者意識が強い→これはまさに「こじらせ系」である。

言葉というのは意外と自分をどう捉えているかを表現している

言葉は、コンテクスト(内容)が大事でしょ、というのは、共通した概念だ。
言葉には情報がある。その情報を得るために、我々は言葉というツールを生み出した。
と同時に、心を表す手段でもある。悲しい・嬉しい・楽しい、そういった表現を使って、自分の気持ちを相手に伝え、ときに共感する。

だが、それだけではない。
自分が世界をどう捉えているか、自分をどう見ているか、を表す手段でもある。

能動態を用いるか受動態を用いるか、謙譲語を使うか、誰を主語にするか、によって、
・自分が主人公の生き方をしているのか、
・臨機応変に主人公が代わる生き方をしているのか、
・いつも他人が主人公の生き方をしているのか、
が分かる。

疑問形か言い切り型かで、責任の取り方が分かる。

語尾が~したいなのか、すべきなのか、で、物事への向き合い方が分かる。

アダルトチルドレンは、自分がない。
ない人は、なるべく自分を主人公にせず、仮に主人公になりそうなときは、相手にも同意を求める疑問形にして責任を回避し、やるときはやらざるを得ないというスタンスを取る。
すべて人に決めて欲しい、という姿勢を貫く(なぜかそこだけは強固)

言葉の使い方を誤ると、伝わるものも伝わらない

一生懸命主張をしているのだけど、何を言っているか分からない人に出会ったことはないだろうか?
断片的に言葉の羅列だけをとれば、そこまで文法を逸脱しているとは思えないのに、結局頭に残らない。
それは、論理的崩壊もあるだろうけど、自分という意識を確立せずにいることが大きく寄与している。

「ボクはおにぎりが食べたい」なら誰にでも分かるが、「おにぎり食べたくない?」だとボクは食べたいのか食べたくないのか判然としないので、ぼやっとした記憶に留まる。
ちなみに「ボクはおにぎりが食べたいのかな?」や「おにぎりが食べたくない気がする」も、相手の頭に残らない。むしろ、「ボクはおにぎりがなにがなんでも食べたくないっ!」と完全否定した方がまだ、残る。

周りがあなたの話を聞かないのは、言葉使いのせいかも?

以上、見てきたように言葉は、
自分をどう捉えていているのか
どれくらい自分を確立していないのか
を表している。

あまりにも他人に決めて欲しい姿勢を貫くと、言っていることが分からず、相手はあなたをぞんざいに扱うかもしれない。

だからって、今すぐ直しなさいよ!ということではないが、自分にどういう傾向があるのかを見ることで、周りとのパワーバランスの理解に繋がる。
コメントをくれた桃さん。自分が搾取される側にまわってしまうのは、案外言葉の使い方が原因かもしれません。できるだけ、へりくだらない言葉を心がけてみましょうね。