心の流れBlog

心の守り方を考える

「でも」の使い方

昨晩、「五年目のひとり」というドラマを見ました。
主人公を演じる渡辺謙さんは、東日本大震災の津波被害で家族と親族をいっぺんに失います。
放射線に汚染された地域で三年間、獣医として家畜の命を葬る仕事に従事した後、精神を患い一年入院した後、故郷を離れてとあるパン屋で働きます。
その地域で出会った娘にソックリの子に、つい「君が一番だ」と声を掛けることから物語が始まります。

この娘の母親を板谷由夏さんが演じています。
板谷さんは、年頃の娘に近づいてきた中年のオジサンを怪しみ、パン屋に苦情を言いに行きます。
そのときの「でも」の使い方が、とても心に刺さりました。

刺さった場面

だいたいこんな内容だったと思います。
「東北の震災で、ご家族を失われ大変だったとは思います。【でも】5年も経って、まだ家族に拘るのですか?自分の娘に似ているからといって、余所の娘に声かけますか?」

こういわれた主人公の胸中、想像できますか?
被害に遭っていない人のいう5年もという月日は、当事者にとってなんの意味ももたない。
5年経てば悲しみが減るわけでも、ましてや消えるわけでもない。
震災で本当の地獄を見ていない側が、這いずり回ってなんとか地獄から光の方向へ歩きだそうとしている側の胸中を勝手に決める。
そんなこと、やっていいのだろうか?

他人の気持ちはこんなもの、とおごってはならない

誰かの心を、他の誰かが決めることなんでできない。
なのに【でも】という言葉で、一気に胸をぐしゃっと潰しに掛かってくる言葉の破壊力に、私の心は血を流しました。

おそらく、日常にこんな風に潰してくる【でも】はたくさん存在すると思います。
たった二文字でつくられる【でも】。その先には、無理解の押しつけが横たわる。
それを放置してはなりません。ちゃんと【でも】と発している自分を見つめなければ。

立場が違っても、私たちには言葉という共通の架け橋がある。
その橋をちゃんと渡りきれるように、相手の心の中を出来るうる限り忖度する。
それが、人としての叡智であり、敬意なのだと思います。