心の流れBlog

心の守り方を考える

「返事」こそ、今求められていることなのでは?

心温まるテレビドラマを見る度、自分を取り巻く現実との差は何なのか?考えさせられる。
さびた頭で考え、かろうじて思いつくのは、会話の運び方だ。
 Aさんが言葉を発すると、Bさんは内容に即した返事をする。
 Bさんが好き勝手に発言する、ということはない。

では、現実の会話はいったいどうなっているのだろうか?

返事のない世界

自分の言ったことに、相手が思ったことが返ってくる。
私の話した内容が、相手の話題にすり替わる。

私「これさぁ、作ってみたんだよね」
相手「そうなの。私は昨日○○してみたんだよね」

私「ちょっと困ったことがあって、[事情説明]」
相手「そんなのよくあることよ。私だって[事情披露]」

どこかかみ合っていないと感じながらも、これが当たり前なので、はっきりとした違和感はなかった。
だから聞き役に回ったときは、話題に関連した意見を述べることが「話を聞く」こと、と思い込んでいた。
でもいざ話が終わってみると、自分に所在がなく、気がつくと聞き役ばかりやらされ、かといって感謝されるわけでもなく・・・、なんか虚しい。
”嗚呼、私の話はツマラナイから相手は耳を傾けてくれないのだ。結果的に相手の話を聞くことくらいしか、役だてないんだ”と落ち込むこともしばしば。

でもまてよ?相手の話も耳を傾けたくなるほどの内容というわけではなく、くだらない噂話や、個人事情。
内容のなさ、でいうなら、両方トントンじゃ?
ワタシ、ナンデ、聞キ役バカリ?

うーん、それは話方が、一方通行だと思い込んでいるからかな。
誰かが話をして、誰かが聞く、一方通行スタイル。
[話を受け取る]が抜けおちている。
[話を受け取る]ことで、発言者の意図が浮き上がってくる--という瞬間がない。
これじゃ、話しても話しても、誰も変わらないし答えも出ないのだから、虚しいわな。

どう変わればいいか?

これから取り組むことは、「返事をする」。
相手が一体どんな思いでその発言をしたのか?に注意を向け、返す。
それを実現するために、話の始まり(起点)と話の終わり(終点)のセットをつくる を意識する。今までは起点ばかりだったのを、終点をつくることにより、自然と起点の存在価値が高まる。

話を受け取ってくれる人がいる-これは何事にも代えがたい安心だ。発言者が出した信号が、ちゃんと受け手に渡ることで、込められた情念は消える。
情念を情念として大切に扱いましたよ、という行為が、情念を成仏させる。

情念?そんなものある?と疑問に思うなら、次のケースを考えてみて欲しい。
「おはよう」と挨拶したのに、返事が返ってこなかった。
挨拶のように短いセンテンスでさえも、受け取って返して欲しいという情念が存在する。

情念は無視できないほどの存在感で、心の底に渦巻いている。

すべての事柄は起点→終点というモデルである

・商品は作られ、役目を果たし、消滅する
・問題が発生したら、原因をつきとめて、改善する
・出した食器は、つかって、片付ける
・食べたら、生命活動をして、消費する

起点→終点というループをぐるりと回すと、どんなモノもきれいに片付く。
ゴミが溜まらない、ストレスが残らない、部屋が汚れない、贅肉がつかない。
流行っている断捨離やミニマリストの考え方もまさに、このループを回りやすくするために生活を見直しましょうと言っている。

戦後モノが無かった時代、有ることが豊かの証であったから、終点を気にせず、前を向いて走った。
結果として、モノが溢れ・情報が氾濫し、起点は充実したのだけれど、対となる終点はおきざりのまま。かろうじて、終活(人生を終えるための準備)という名前で、その存在が露わになった程度だ。

過去に「進め~」とばかりに起点を充実させたはいいが、今の若者は終点に飢えている。
LINEに書き込み返事を待つ、自慢したくてSNSにアップし「イイネ!」を求める、のは、自分の望む返事を待っているからではないだろうか?
若年層が経済的理由もなく売春をするのは、私の話を聞いてくれ、私を必要としてくれる誰かを求めているからではないだろうか?

自己肯定感を上げるには「返事」が鍵

時間に追われる現代、話を進めることばかり優先され、返事は軽視されがち。
だからなのか、全世代で「返事」のスキルが未発達な気がする。

・「そうだね」「なるほど」といった相づちを打つ。
・オウム返しをする。
こういう旧来の方法でさえも、きちんと出来ているのは訓練を受けたごく一部の人だけ。
もっと踏み込んで、相手が一気に話した内容を的を射た言葉で要約する、であるとか、隠れたメッセージを言い当てるという技は、それこそ「返事」の貴重さに気づき、その能力を磨いてきた人にしかできないことだろう。

しかし想像してみて欲しい。
自分が言わんとしていることを、相手がズバっと言ってくれたとき、どんな感情がわき起こるか。
きっとそれは、道に迷って心細くなった自分を、お母さんがぎゅっと抱きしめてくれたときに感じる安堵感に似ているだろう。
そして安堵感の後に、言わんとしていることを意見として持ってもいいのだ、というほのかな肯定感の波が押しよせてくるだろう。
そう、「返事」には自己を肯定する力がある。

だから発言ではなく「返事」を大切にして欲しい。
「起点」と「終点」をセットに考えて欲しい。

自分の心に湧いた考えに「返事」をしていこう。
自分がなかったことにした感情を掘り起こして、ちゃんと「返事」してあげよう。

自分に返事できるから、他者にも返事できる。
「返事」。これは思っているよりずっと大切。