心の流れBlog

心の守り方を考える

友達を求めすぎる人達の行く末

昨日話した親の話の続き。

私の親はとにかく「いつ、だれと、どこで、何をした」という話がやたら多い。
まるで友達というコレクションをショーケースに並べるかのように。
「友達のいる自分は立派、人としてまとも!」とでも言いたいのか、次から次から知らない人の名前、写真(それも親は写ってない)が出てくる出てくる。

聞いているこっちがウンザリしているのにも気づかず、必死に自分のすばらしさを繕おうとする浅はかさに、毎回ガビーンと思う。

結局子供をウンザリさせる態度を取っているということは、大人に対して、つまり彼らがいう「お友達」にも、そのような態度を取っているのだ。

「お友達」も裏では”KOMA親さん、必死ねぇー。なんか見ていて痛々しい”と陰口叩いていることだろう。

親は、自分の中に価値を認めるではなく、他人からお墨付きをもらって幸せごっこを演じている。
友情?の内実は空っぽなのに。

そんな上っ面の皮一枚でつながる見かけ倒しの友情に翻弄されるくらいなら、私は友達ゼロでもいい。
一人でいて寂しいは、二人でいて寂しいよりか、何倍も寂しくない。
場合によって賑やかにさえなる。
本を読めば同志がいるし、ノートに書き出せば何時間でも付き合ってくれるもう一人の自分に会える。一人であることは、独りぽっちであることとは違う。

結局(ノートなどを通して)自分の中にいる他者と話し合いをすることが出来なければ、実際の他者、即ち友人とも対等で健全な関係を築くことはできない。いつの間にか依存に陥って、相手に負担を掛ける。
そしていずれ関係性は消失するか、崩壊する。

話す内容で、その人の人生の奥行きが分かる。
ひたすら周りの人と自分の関わりを話する人は、確実に心が幼い。
そんな人の自分に関する話と言えば、愚痴と同情引きのような、人の聞きたがらない話ばかり。
よって、有料で話を聞くのが仕事のカウンセラーぐらいしか、(心を開く)話し相手にはなれない。

世の中に無償で話を聞いてくれる人はいない。皆それぞれ事情を抱えている。
自分が先に提供した分だけ、自分に返ってくるのだから、幼い人は一生絆で結ばれた友を手にすることはないのだろうなと思う。