心の流れBlog

心の守り方を考える

生きている前提が違う人々

他人のことを考え、尽くしているのに軽んじられる。
一方意志を貫き、自分の思うがままに生きているのに周りに大切にされてる。

他人のために頑張っている人からすると、理不尽きわまりない。
私は他人の好かれるためにこんなに頑張ってる。なのに報われない・・・” と。

他人のために頑張っている人は、「私は愛される価値のない人間だから、せめて他人の役に立つことによって愛情を得よう」としている。
一方で自分を優先する人は「私はそもそも愛されているので、他人の目を気にすることなくのびのびとしていよう」と思っている。

《ただそこに居る》だけなのに、人によって居方が全然違うのだ。

人間は相手が「餓鬼」なのか、「畜生」なのか「人間」なのかを無意識に分けている。

愛を得ようと必死に食らいついてくる「餓鬼」や「畜生」は、何かを吸い取られそうなので、あまり親しくしたいと思わない。
一方で満たされている「人間」から何かを与えられる気がするので、もっと近寄りたいと思う。

何かを取られそうな人と何かを与えられそうな人、貴方ならどっちと一緒に居たい?


さて、なぜ、このような2種類の人間が創られたか。
それは、人生のスタートに愛されたかどうかによる。
十分な愛情を注がれ、自身も愛されていると実感した子は、愛されていることを前提に全てが構築される。
愛情が不足し、自身が愛されていないと実感した子は、愛されるための努力が前提に全てが構築される。

満足な愛情を得られた子はすくすくと伸びやかに育ち、愛情が不足した子はびくびくと周りの顔色をうかがいながら萎縮して育つ。

このブログを読んでいる人は、後者のタイプに当てはまることが多いのではないだろうか?

自分という存在に疑念を持ち、いつも愛情に飢えていて、周りから愛される人を心の底からうらやましいと思っている。相手をねたむ自分が嫌で、嫉妬心を抑えようとするけど、やはり在るもの(心)を無くすことなどできず、そんな自分を不出来だと責める。
ぐるぐるぐるぐる、なんども思考を巡らせて、結局解は見つからず。混沌とした世界に光を感じる目さえも失ったアメーバの如く地下を這う自分。

あまりに違う2者の心の世界。
同じ空気を吸い、同じものを食べ、同じ教室で学んだ。にも関わらず明らかに互いを分ける深い谷底。

世の中を簡単に分けるとして、いい人間と悪い人間がいるならば、大半は悪い人間である。
これは表面上いい人か悪い人か、ではない。
六道でいう「人間」か「それ以下か」ということである。
おおよその人は人から愛されず、故に自慢や執着、イジメ、自己卑下に走る。
貴方の周りで、心から好きと思える人の少なさからも実感できるだろう。

そう、ほとんどの人は愛されている実感が持てず、苦悩のさなかにいる。

だから愛されていないからといって、恐れることはない。それが当たり前の世界に我々は置かれている。
ただし、そこでぬるま湯に浸ればよいと言っているのではない。
苦しいと思うのなら、苦しい根源を探り、根源に手当をしてやること。
自らを癒やせるのは、他人ではなく自分だけなのだから。

自分が自分の傷を癒やし、愛情を与えることが出来た先に、あんなにも求めていた愛情のある世界が拓ける。

我々は経済社会の中で、法を守り生きている。
しかし、生きていることの根源は食べ物があるから、地位が約束されているから、ではない。
「愛されていると感じられるから」なのである。

ー自分はここに在(い)ていいー
そう感じられなくなったとき、人はいとも簡単に命を絶つ。
その予備軍がうじゃうじゃといる。

ネトウヨ、うつ病を発症する人、友達のいない人、イジメに継続的に遭う人、人嫌いもしくは人前で過度の緊張をする人、離婚する人、親子関係のうまくいかない人、転職を繰り返す人、遠慮しすぎる人、自分の意見を言えない人。

かなりの人々が、なんらかの症状にとりつかれている。
ただその人が死なないのは、まだ他人からのかすかな愛情を感じられているから。
それさえも失ったときに、人々は暴走を始める。

人と人のつながりが希薄化した現代、大勢の人が苦しんでいる愛情飢餓。
それでも我々は命ある限り生きなくてはいけない。
ならば、よりよい生き方を模索しようではないか。
少なくとも私は、愛されないを前提にこれ以上漫然と生きたくはない。
ちゃんと、自分を生きたいと強く思っている。