心の流れBlog

心の守り方を考える

わからない人とどう溝を埋めるか

ある図形を見せて、こういう構造ですよと説明しても、全然違う解釈をする人がいたとする。
何度も何度も説明するけれど、相手は「あれがわからん、これがわからん」と反発を繰り返す。
あれの説明をし、これの説明をしても尚、相手は考えを変えない。
こんなときどうしたらいいんだろう?

解釈を間違えているのは、明らかに相手。相手の頭が硬くて、まったく図形を理解できない。

そんなとき、説明を尽くして尚通じないと「オマエはバカか?」と罵りたくなる。(→場合によっては、罵ってるかも)

こんなとき、解釈を間違えている相手が悪いんだ!と責任を押しつけ、その場を去っていいんだろうか?---->そこが疑問。
相手に理解されなくても、一向にかまわないのならば、放っておくのが最良である。
でも、相手に理解されなかったら、自分が不利益を被るとしたら???

いつかは、相手を理解させなくてはならない場面に遭遇するのだから、その場面の前にシミュレーションして、回避策を考えておくことは有効かと思う。

分からず屋に遭遇したとき、人々の反応は主に二つに分かれる。
一つは、先の例のように相手を罵る方法。
もう一つは、根気強く分からず屋につきあう方法。

前者のように振る舞ってしまう人というのは、自信がない人。
言っていることが正しくて、客観的にも正しいと言えるのだから、相手の能力の低さにつきあう必要はないよね。むしろ、下手につきあったら、いままで信じてた真実が壊れるかも・・・という気持ちの下、正論でねじ伏せようとする。

後者のように応対する人というのは、自信のある人。
人間は不完全で、周りの人が理解できてもその人だけが理解できないことがあると知っている。もちろん分からない人なりの考えに耳を傾ければ、分かったと思っている人が見落としていることに気がつくかもしれない。いままで信じてた真実は、未来も真実であるとは限らない・・・という考えの下、とにかく辛抱強く相手の分からないにつきあう。

この2者の違いは、単に忍耐力だけではなく、親から受け継いだコミュニケーションによる。
ガミガミと怒鳴り、子供を従わせようとする親に育てられた子は、ねじ伏せること自体当然のこととしているので、労力の要らない前者型のふるまいをする。
どんなバカげたことでも真摯につきあう親に育てられた子は、答えは常に未知であることが当然としているので、労力がかかっても後者のふるまいをする。

私は前者のタイプで、ガミガミ親だったのだけど、ここへきて、そのコミュニケーション方法でいいのか?と自身の在り方に疑いを抱き始めている。
同じ物をみても解釈が違ったり、解釈を間違えることはあって当たり前なのに、最初からみんな分かって当然と思っていると、いずれ自分は頭打ちする。
分からない人と分からないなりのコミュニケーションをすることで、人間としての幅が広がる。

そのためにまず第一歩として、相手をねじふせようという気が起こらない自分をどうやったら作れるかを考えよう。それには、自分とは違う人の意見を聞ける心を持とう。
私は何人に(なんぴと)にも脅かされることなく、自分の考えを持つことが出来、同様に他者もその人固有の考えを持つことが出来る。
この前提を私が心から理解することだ。