心の流れBlog

心の守り方を考える

優しそうと優しいは違う

分かりやすい気遣いをするとか、相手から言われたことをちゃんとやるとか、そーいう行動をする人は優しい人と評される。
が、私はその人は優しくなんかない、むしろ冷たいと思う。

優しさというのは、分かりやすい何かをすることではない。

分かりやすいことをやるなら、「命令に忠実な性格」とでも評したらいい。
分かったことを分かったようにやる(裏を返せば、分からないことは一切しない)は、自分で考えることをせず失敗するリスクを負う気のない人がする行動。

本当の優しさとは、分かりにくいところ・考え抜かなくてはならないところにあるものだと思うし、もしかしたら表面上は厳しく見えるかもしれない。師匠が弟子を鍛えるように。

配偶者Sは、何かと私のやったことで自身が気づいたことを口に出す。
「○○やったんだ」「△△ありがとう」。
配偶者がこのような言葉を使うと知った他者は、「旦那さん、優しそう」という。
そりゃ配偶者はイエスマンだからね、意見ないからね。
・・・って、じょーだんじゃない。


Sには心が入っていない。
自分が単純にへぇ~と思ったもののうち、私に関係のありそうなものを口に出してるだけ。
その行為に込められた私の気持ちとか、どこを一番工夫したか・苦労したかなどは一切見てない。
はっきりと見えないものを捉えるのは、頭使うから、イヤなんだ。
で、とりあえず見えるもの(正確には見てなんか思ったもの)に対し、感想を言っている。
Sが私の心をみてないことは明らかなので、私は心中「おべんちゃら使ってんじゃねーよ」と思う。

私のためを思うなら、私がどう考えたのか立ち止まって検討してみることだ。
ただSの感じたことを口に出せば優しいと思ってるなら、思い上がりもいいところ。

世の中には「いい具合に積極的な人」と「自分勝手に積極的な人」と「消極的な人」がいる。
いい具合に積極的な人は、相手の心をを知ろうとし、知ったからこそ何をしてよいかが分かり、適切な行動にでられる。
でも残り2つは、相手の心が分からないのでめくらめっぽうに玉をぶち込むか、標的が定まらず玉を撃てないかのどちらか。

どちらにしても相手の心あっての行動に出られなければ、それは相手にとっては「無」に等しい。
何をされてもされなくても、心をかすりともしないのだから。


その昔私はSの優先順位を下げたことがあった。今でもそうしてるかもしれない。
それは、Sとどれだけ時間を重ねても「無」以上の何かを感じることはないから。
「無」は害もないが、魅力もない。
だから私はSを好きじゃない。

周りからどれだけ優しそうと評されても、それは優しいではない。
私の心を考えず、面倒なことは全て押しつけ、都合が悪くなると逃げる。
そんなヤツの何処が優しぃ?
コッチが瀕死の時でさえ「どぅしたらいいか分からな~い」って見捨てられますぜ。
救急車すら呼んでくれないかも。だってどこまでヤバければ救急車呼んでいいか、分からないからね。