心の流れBlog

上手くいかなくて迷い込んだときの読みもの

他罰的な考えは何も成長させない

我々は他者が他罰的な考えをしているとき、嫌悪感を覚える。

「○○のせいでそぅなった」
「私は悪くない。周りが気付かないのがいけないんだ」

いつも誰かを悪者にして、全責任を押しつけて、自分を省みることがない。

このように思考のストップした状態が続いている間、自らの成長は止まる。
関わっている以上全てのことは、「自分にまったく責任がない」とはいかない。
自分が気をつけていれば…、自分が気を廻していれば…という部分は少なからずあったはず。
自分の能力のなさを棚に上げて、出来なかったのは外的要因のせいだと決めつけるのは、単細胞の動物のやることではないだろうか。

反対に、全ては自分の責任、悪いのは私…という考えも感心しない。
自分のせいにしておけば、相手が責めてくることがない。
それを以て我が身を守り、それ以上考えないことにする。
これもまた単細胞レベル。

ある結論が導かれるまでには複雑な絡み合いがある。
その中でパラメーターの一つが違えば、違う結果が生み出される。
それはバタフライ効果でも明らかだ。
パラメータ要素の一つである我々の思考や言論は、かならず場に影響を与える。

我々はその真実を薄々ながら本能で知っているから、他罰的な人に対し、無責任な感覚を抱くのだ。
卑屈になることなく反省できる人は、同じ出来事に遭遇したとき、経験によって導き出した新たなる思考を以て対応するので、前回とまったく一緒という運びにはならない。
少しずつではあるが、改善し、前進していくのだ。
第三者はこの様子を見て、その人の省みる能力の高さに尊敬を覚え、自らをも省み、応援する。

考えを止めることは、愚かなる行為だ。
この「愚かなる」が、どうぃう日本語の意味なのか、抽象概念なのか、それを正確に掴むのは難しい。
高飛車でも平身低頭でもなく、毅然として真実に向き合う厳しさを受け入れて生きていくことができて初めて、愚かなるから距離を置ける。
しかし気を抜けば、感情に乗っ取られれば、あっという間に愚かなるゾーンへ落ちる。

少なくとも他罰的考えの絶対的に何も生まないという、このどぅしようもなく逃げようのない事実を心の底に刻み込んで、こぅはなるまいと戒めることができなければ、間違いは繰りかえされ、毎回同じブラックホールに落ちていくことだろう。
人生を変えるのは、省みる力をどう育むかである。
ない頭を必死にしぼって、考え得る最大の解を求め続けることである。