心の流れBlog

上手くいかなくて迷い込んだときの読みもの

正直…悩んでいる

配偶者Sの受身な姿勢をどのように改善していったらよいのかを正直悩んでいる。
明らかにSの感情は成長が途中で止まっており、また感情が育たないための強烈なフィルターがかかっている。
これはSの親の育て方せいである。

私には責任のないこと、と放り出すのも一つの手だ。

私は離婚すればただの他人なのだから。
でもそう簡単に離婚に移れるわけもなく、だからどうするのか?なのだ。

岡田尊司先生によると、Sのような愛着障害者を救う方法はある。
親が与えてこなかった[感情を汲み・育む]といった作業を、代わりの第三者がになえばよい。
でもそれをする人間が私しかおらず、私はSを産んだわけでも、好きなわけでもなく、そして私は見捨てられまくったという被害感情があるだけに、難しい。
言い換えれば、自分に危害を加えた犯罪者の心を救う作業をせぇと言われているのだ。

さらに、悩ましいことは、私は事ある毎に手本を示してきた(つもりだ)が、一向に感じるものがないこと。
人が病気の時は、こんな風に接しましょうね。
困っているときは、こんな風に手助けしましょうね。
Sは与えられたそれを、当たり前のように受け取り活用してきた。
でもありがたみは感じられなかったようだ。
私のやった行為に心打たれたり、感心した様子を見たことがない。

つまり、与えられても与えられなくてもさしたる不満もなく、むしろこっちが与えたのだから、そっちも与えろよみたいになることそのものに不満を抱いている。
要するに何も求めない、求められない、けど人が周りにいるが望ましいらしい。
引力がないのにその場にものが居続けるなんて、物理の世界でもありえないのに、そんなことも分からない人なのだ。

私はどぅすればいいのだろう?
何も考えていない鼻垂れ小僧を理性と愛に溢れた人間に育てるために、何からどぅ手を付けたらいいのか、もしくは小僧からどぅ逃げたらいいのか?
さっぱり分からない。

私には人としての深い「愛」がないのだろうか?
困っていない人(S)を救おうとする慈愛はないんだろうか?
それとも望まれていないのだから、自分の生活改善のために他者に変化を求めるのは横暴なのだろうか?
仕事して、離婚して、再婚すれば、こんなこと悩まなくても大人同士でもっと高度な悩みを共有できるのかもしれないが、今の私はここに留まっている。
なんとかして、考えをひねり出さねばなるまい。

う~ん。