心の流れBlog

心の守り方を考える

なんでも自分で出来ると思い上がると他者が見えなくなる

独りよがりの配偶者を見ていると、普段はやさ男なふりをしているけど、自分に
不都合な主張を相手がすると、途端に罵倒や軽蔑をしてくる。
相手への敬意というものがない。

ちょっと前にどこかで読んだ記事に、夫婦げんかをして批判をするまではよくあること。

それが批判を通り越して、罵倒や侮蔑になる頻度が高くなると離婚すると書いてあった。
それに激しく同意。

罵倒とは、根拠のない相手への強い否定であり、そこまで言うくらいなら尊重も愛情
もないでしょうと決別の決断をするのは当然の成り行きに思える。

なぜに罵倒のような卑劣な行動に出られるかというと、自分が他者を必要としていない
からである。
もし必要とする生き方をしていれば、この辺で止めておかないと相手と自分は切れて
しまうのではないか?相手の心を傷つけて修復できなくなるんじゃないか?という
考えがよぎって、批判で止めておける。

他者を必要とする生き方をするからこそ、他者を尊重せざるを得ないのだ。
裏を返せば、他者を必要としないなら、どんなに他者を傷つけてもOKということ
になる。
配偶者と険悪になる度、配偶者の背後に見える”汚らしい心”の正体は、やはり
その人の生き方と大いに関係があったのだ。

そこで、なぜ他者を必要としない生き方を選んだのか。
そして、一生他者を必要としない生活をし続けることは、楽な人生なのかを考えたい。

人は一人で生まれて、生きていけない。
誰かに世話をされ、誰かと接しながら、成長する。
その過程において、本来なら保護する役割の人間が、その役割を果たさない場合
子供は自分の心の中に自分という保護者を形成する。
その保護者は正しく保護をするのではなく、子供の世界から見た保護をする。
おそらくその保護は、非常に偏った形だと思う。

例えば子供同士でケンカをしたときに、大人が保護者の場合、双方の言い分を
聞いて、どちらの子供も尊重した上で、ケンカの仲裁をする。
ところが、同じケンカでも、子供保護者の場合、自分の言い分を押しつけ、暴力で
制裁しようとする。それは仲裁ではなく、支配である。

暴力で事が収まれば、尚、今後も暴力が一番の手段だと感じ、迷いなく暴力にでる。
暴力以外にも、自分がYESマンに徹するだとか、孤独になることで衝突が起こる
ことを防ぐだとか、バリエーションはあるだろう。
どれも子供に心の重しを乗せる。

子供も大人になれば、弁が立つ。
従って、暴力に徹していた方法は、相手を揶揄したり卑下するといった手段になり
替わる。
他者はいつか自分の敵になり、自分がやっているのと同じく口頭で攻撃してくる
可能性があるのだから、誰かに弱音なんて吐けるか!と、相手との距離を置くよう
になる。
誰にも本音が話せない。だから上辺の付き合いしかできない。
それもやっかいなことに、本音が話せないことをマイナスと捉えず、プラスと捉えて
いる。→自分は弱音など吐かない強い人間だと。

若いときはその考えでも、そこそこ通じる。
しかし、年月と共に身体が衰え、誰かの助けを借りなければならない時がやってくる。
そのときに、自由にならない身体、先の見えない不安を前に、相談する相手は
誰もいない。
くっそーと悔やんでも、叫んでも、どうしようもない。
そこで、はたと気がつく。自分一人で抱え込める問題には限度があるんだ と。
今までは抱え込める程の質だったけど、今度のはもっと大変だ。
誰か聞いてくれ、慰めてくれ、助けてくれ~~~っと思っても後の祭り。
精神的に廃れていく自分を前に、打つ手なし->孤独死コース。

~神は自らを助く人を助く~
つまりは、自らの生き方を自ら反省し、新しい生き方をした人にだけ、新しい人との
つながりを与える。

先に見てきたように、どんなに他者を必要としないと強がっても、いつかは他者を
必要とする人生にぶち当たる。
そこから変わるでも、いいかもしれないが、成功確率は低い。
ならば、今ここで、何にも困っていなくても、他者を必要とする人生の可能性を
考えた方がいいのではないか?

必要とするからこそ、大切にする。大切にするからこそ、ケンカしても、ある所で
止めておける。ある所で止めるからこそ、関係性は続く。
そうやって積み重ねてきて、どんな人ともまぁるくつきあえるようになれば、人生の
後半に行くに従って、円熟味を増した楽しい人生が過ごせるのではないだろうかと
思うのです。