心の流れBlog

上手くいかなくて迷い込んだときの読みもの

自分の感情を表現する

発言小町で人気アクセスがあるトピックの中に、「とんでもない苦痛を強いられて
困っているが、それに耐えられないのは私の至らなさなのか?」と問うものがある。

イヤなのだから、他者がなんといおうとイヤなんじゃないか?どうして自分以外の

人に認めてもらわないと自分の気持ちが確定できないのか?と思う。

一方、少し前の私は、同じようになにか問題があったら自分が悪いんじゃないか
と疑ってかかり、周りの人にアドバイスを求めていた。
周りの人は、自身の価値基準に合わせて相談内容を肯定したり否定したりする。
そこにはもちろん【絶対的】な答えなどない。

相談している内に、返答は相談している相手の視野の広さに依存するし、そこまで
視野の広い人間がポンポンいるわけじゃないから、結局自分に相談するのが
一番ではないかと考え始めた。なによりも私自身が当事者の気持ちを理解し、
真剣に考えてくれると思ったからだ。

そうやって、日記に自分の相談事を書いている。心で反芻して、「っで、どうよ?」と
自分に訊いてみる。
何度かやってみて、自分の感情は素直に認めた方がいいと気付いた。
イヤなものはイヤなのだ。それを無理矢理ヨイことにするのは、自分の心を裏切る
ことになる。

そんなとき、「アサーション」という技術に出会った。これは日本語で「さわやかな
自己表現」というらしい。自分の感じていること・考えていることを下手な感情を
絡めず「さわやか」に表現する技術だ。
おおよそなら相手の感情も想像できるが、自分の想像の範疇を超えてしまうと
理解できない。だから互いに「心の中」を表現する必要があるのだ。表現して
くれないと、悪気がなくても相手を傷つけてしまうこともある。

私も含め多くの人は、ついつい自分の感情を押し殺しがちだ。「自分さえ我慢すれば」
と、心にたまったものを押さえ込んでしまう。その結果、ストレスフルな生活になる。
なにも、たまったものを感情を好き勝手ぶちまけましょうと言ってるわけではない。
ただ、淡々と「私は~と言われると、傷つきます。」と言えばいいのだ。

こういう技術って、人の間で生きていく上で大切だと思う。小学校の道徳の時間にでも
習いたかった。北欧のどこの国だったかでは、「聴く」ことについて学校で教育を受ける
らしい。
日本は今閉塞的で、人同士のつながりがうまくつくれないからこそ、教育の現場で、
当たり前のことを技術として習得させることが必要だと感じる。